Sognate〜5〜




「本当に遠征帰りだったんですか?」


ブランケットから恨めしげにザルガバースを見上げると、彼は手にしていた本からついと顔を上げた。


「ああ、朝から晩までやることが次々とあってもうくたくただ」
「そんな人が会うなり恋人の服をひっぺがします?」


1週間ぶりに私の家にやって来たザルガバースは、寝室まで移動するのももどかしいと、この暖炉の前で情事に及んだのだ。一晩中、愛を一身に受ける羽目になって、こちらはまだ起き上がれないというのに、彼は涼しい顔で本を読んでいる。なんだかそれが悔しい。


「私は現役のジャッジだということをお忘れかな?常人よりも体力には自信がある。もちろん、愛する恋人を目の前にすれば尚更ね」


余裕のあるその表情が癪に障るけれど、それが全然嬉しくないわけじゃない。ブランケットを巻きつけたまま、まだけだるい身体をなんとか起こして、彼に寄りかかる。


「なんの本読んでいるんですか?」
「飛空工学の本だ。もう50年以上前のものになる。先人たちは本当にすごいと尊敬するよ。今のようにまだ科学も発達していない中、高い技術を造り上げている。そしてそのことにこうして触れることが出来るのは喜ばしいことだ」
「そういえば、父が言っていたわ。店にある古い本たちは、知の遺産だって」
「知の遺産?」
「ええ、何十年もの時を越えて、私たちにその思いや業績を届けてくれる尊い物だって」


私の言葉に同調するように、彼は頷いた。


「ああ、父君の言うとおりだ」
「―――でも」


私はザルガバースの手からその本を取り上げた。

「私といる時は、私のことだけ見て欲しい、です」


私の言葉に一瞬目を丸くしたザルガバースだったけれど、すぐに笑って私を抱き寄せた。


「それはすまなかった。だが、君を愛すること以上に大切なものなど私にはないよ」



熱い口付けを受けながら、私たちはそのまま再びブランケットの中に沈んだ。

身も心も解けてしまいそうなほどの幸福。ザルガバースに愛されるこの幸福な日々が、ずっとずっと続いていくのだと、その時の私はそう信じて疑わなかった。






それは、この冬初めての雪が街を真っ白に染め上げた日の午後のことだった。足早に前の通りを歩いていく人たちを眺めながら、この雪じゃお客さんももう来ないかしらと、そう思った時、カランとベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


慌てて声を掛ける。やって来たのは初老の男性だった。店内を見回して私の姿を見とめると、真っ直ぐにこちらへと足を進めてきた。


「失礼ですが、テミスさんでいらっしゃいますか?」
「あ、はい……そうですが」


思いもしなかった問いに、驚きつつもそう答える。


「私、ロダンと申します」
「ロダン、さん……」
「ザルガバース様のお屋敷でお世話になっている者です」


聞き覚えのある名前だと思っていたけれど、彼の名前が出てきたことで、この男性が彼の家で執事をしている人なのだということに気がついた。以前本の入荷の連絡をした時に応対してくれた人も、きっとこの人なのだろう。


「こ、こんにちは」


私は慌てて頭を下げる。


「今日は、あなたにお願いがあって参りました」
「私に……?」


穏やかだった表情を曇らせて、彼は口を開いた。


「旦那様と、別れてはいただけないでしょうか」
「……え?」
「実は今、旦那様にご縁談のお話が来ているのです」
「―――縁談?」


その言葉に、スッと、背筋から何かが抜け落ちていくような感覚を覚える。


「お相手はロザリアのマルガラス家の遠縁に当たるご令嬢です。婚姻が成立すれば、ロザリアとの友好関係はさらに強固なものとなるでしょう」


「ロザリア……」


震える手をぎゅっと握り締め、なんとか声を絞り出す。


「彼は……なんと?」
「もちろん、旦那様はお断りになっております。私も、出来うることならば、旦那様の想いを尊重して差し上げたい。けれど、これはもう旦那様のご意思だけでは片付けられないところまで来ているのです。もし破談となれば、旦那様のご立場もどうなることか―――」


ロダンさんは深々と私に頭を下げる。


「―――どうか、年寄りの最後の願いだと思って聞いてください。あなたのお気持ちをわかった上で申し上げるのは、卑劣なことだと思っております。しかし、旦那様のことをお想いであるのならば、どうか身を引いていただきたいのです」






気がつくと、もうロダンさんの姿はなく、薄暗い店の中で私は床に座り込んでいた。


『旦那様にご縁談のお話が来ているのです』
『もし破談となれば、旦那様のご立場もどうなることか』


ロダンさんの言葉が頭の中で繰り返される。

私は今になってやっと、彼の立場というものをまざまざと思い知った。彼の人生は、彼一人のものではないのだ。そのひとつひとつが、彼の家を、国をも変えるかもしれない立場にある。

私と彼とじゃ、何もかもが違いすぎる。今更ながら気づかされたその現実に、涙が次々と溢れ出す。


「そんなこと、初めからわかっていたはずなのに―――」


私は街から灯りが消えるその時まで、そこから立ち上がることが出来なかった。




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