Sognate〜6〜




ぱちん、と暖炉の薪が音を立てる。まるでそれがきっかけだったように、彼が口を開く。


「今、なんと?」


私はテーブルの下でワンピースをぎゅっと握り締めてから、小さく息を吸った。


「―――もう、終わりにしましょう」
「……テミス?」
「もう、疲れました。やっぱり、あなたと私とじゃ生きる世界が違うし。お互い、どんなに頑張ってもあわせることなんて出来ないと思うんです」
「これまで、ずっと無理をしてきたというのか?」


彼の震える声に気づかないふりをしながら、私は頷いて見せた。


「ええ、そうです」
「私を愛してくれていたのではなかったのか?」
「うまくいけば玉の輿にのれるかな、と思ってはいたんですけれど―――……っ!」


強い力で腕を引かれたせいで、身体が椅子から浮き上がる。目の前には、ザルガバースが私の腕を掴んだまま、見たこともないような苦しげな表情を浮かべていた。


「は、離してください……!」
「じゃあ、なぜ君は私を見ない!?」


その言葉に、身体がびくりと震える。


「愛していないのだと、本当にそう思うのなら、私の目を見てもう一度そう言ってくれ」


「愛していない」と、そう口にすればいい。そうすれば、きっと彼は私に失望するだろう。そうわかっていても、私はその言葉を発することは出来なかった。


「……私と、別れてください」
「私は君を愛している!君も私と同じ気持ちなのだろう?だったらなぜ―――」
「あなたを愛しているからです……!」


ザルガバースが目を見開く。


「……あなたが私のせいで、これまで築いてきたものを失うのは耐えられません」
「何を失うというのだ?もし何かを失うというのなら、私がいちばん恐ろしいのは君を失うことだ!」
「私などより、あなたにはもっと相応しい人がいるはずです!」


ふっ、と、私の腕を掴んでいたザルガバースの力が弱まった。


「―――誰に聞いた?」


彼の問いかけに、私はただ首を振って沈黙を保った。彼はそれ以上、問い詰めはしなかった。


「あの話を受けるつもりはない。私が将来の伴侶として選ぶのは、テミス、君だけだ」


真っ直ぐなザルガバースの言葉が、私の心を貫く。けれど、同時に胸が引き裂かれそうだった。


「……君とこの先、生き続けることができるのならば、今の地位を失うことに私はなんの躊躇いもない。いっそ全てを捨てて君とこの国を去ることになろうと構わない」
「……そうなったとしても、私はきっといつの日か、あなたをそんな目にあわせた自分を恨むでしょう。―――そしてあなたも、国を捨てたことを後悔する時が来る」
「テミス!」


溢れそうになる涙を堪え、私はザルガバースを見つめた。


「あなたは、アルケイディアのジャッジマスターです。この国を、民を、あなたは守り続けなければいけない人なんです」


小さく、彼が息を呑んだ。


「だが、私は……」
「お願いします。私のことを想ってくれているのなら、私のことは忘れてください。―――私も、そうします」






小さくなった暖炉の炎が、真っ暗になった部屋をぼんやりと照らす。部屋は、まるで音をなくしたかのように静かだった。


「これで、良かったのよ―――」


私は消えかけている炎を見つめてそう呟いた。身分違いの恋だと、そんなの初めからわかっていた。私と彼とでは、背負っているものが違いすぎることは。


でも―――。それでも、叶うことならずっと彼の傍にいたかった。彼の声で名前を呼ばれ、彼の腕に抱きしめられて、他愛もない話で笑いあっていたかった。


「っ……バース…っ、ザルガバース……っ」


両手で覆った手の隙間から、嗚咽がこぼれていく。


『君を愛すること以上に大切なものなど私にはないよ』


この場所で私を抱きしめながらそう言ってくれた彼の姿が浮かび上がる。


ザルガバース!ザルガバース……!!


誰よりも愛おしいその名を心の中で繰り返し叫ぶ私の頬を、涙は枯れ果てることなく流れ続けた。






「なんだか今夜は雪が降りそうだ」
「ええ、すっかり冷え込んできましたし。気をつけてお帰りくださいね」
「ああ、ありがとう。じゃあ、また来るよ」
「ありがとうございました」


お客様を見送って空を見上げれば、薄鼠色の雲が空に広がっていた。


「本当に雪が降るかもしれないわ」


吐いた息の白さに身体を縮こませながら店の中に戻る。


季節は巡り、もうあれから1年が過ぎた。あの後、彼がどう過ごしているのかは私などにはわかるはずもないけれど、彼のことを想うと生まれる胸の痛みは、いまだに消えることはない。きっとこれから先も、失くすことなど出来ないだろう。


「もうそろそろお店閉めなきゃ」


それでも、私はこれまで通りここで生きていく。一緒に飲んだホットワインや、手をつないで歩いた街、朝まで抱き合って眠った温もり。その全てを大切な思い出として胸にしまって、私はこれからも彼を想い続けていく。彼と過ごした全てが私の幸福だったと、そう今でも胸を張って言えるのだから。




カラン、とドアのベルが鳴る。


「いらっしゃいま―――」


私は、それ以上言葉をつむげなかった。


「テミス―――」


幻ではないその人が、忘れることなど出来ないその声で私の名を呼ぶ。


「ザルガ、バース……」
「遅くなってしまってすまない。全てを片付けるのに時間がかかってしまった」


その言葉の意味をはかりかねていると、彼は小さく微笑んだ。


「私などが謀られた婚姻を結ばずとも、もうロザリアとの仲が揺らぐことなどない」


一歩一歩、私の方へと歩みを進めながら、彼は続ける。


「国のために、心に決めた人との別れを選ばなければならないようなことを誰にもさせるわけにはいかないと、陛下もそうおっしゃってくださった。―――この国で生きているひとりひとりの幸福こそが、国にとって何よりも大切なものだと」

私は何も言えないまま、ただザルガバースを見つめることしか出来なかった。


「―――テミス」


手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた彼が、もう一度私の名を確かめるように呼ぶ。


「君にあの時、辛い思いをさせることしか出来なかった私を許して欲しい」


ザルガバースは苦しげに目を伏せた。


「……でももし、まだ私のことを少しでも想っていてくれるなら……もう一度、私のことを受け入れてくれないか?」


隠せない不安をその奥に浮かべたザルガバースの瞳を見つめる。1年ぶりのその頬は、以前よりも少し痩せたように思えた。私はその頬にそっと手をあてた。1年ぶりに触れた愛おしい人の体温―――。すぐに重ねられたザルガバースの手が、私の手を包み込む。


忘れることなどできるはずがなかった。時間がたつほど、思いは積もっていった。


「―――1年前のあの時から、私の全てはあなたのものです。それは今も、少しも変わっていません」
「テミス……!」


その時私を抱きしめた彼の震える腕を、温かさを、私は生涯忘れることはないだろう。






読んでいた本から目を離して視線を下げ、私は口元を緩めた。


「随分と気持ちよさそうに眠るものだ―――」


その柔らかな髪を梳いてやれば、気持ちよさそうに身じろいだ。その心地よい重さが、脚から私の全身へと広がっていく。


『外でのんびりしましょう』とテミスに連れ出されたのは、彼女の店の近くにある公園だった。そこで持ち出した本を読み始めた私に、最初はいろいろとちょっかいを掛けてきていた彼女だったが、気がつけばいつの間にか私の足を枕にしてすっかり眠りの世界へと旅立っていた。


走り回る子どもたちの歓声と、降り注ぐ日の光。そして、彼女の穏やかな寝息と安心しきったその寝顔。そのどれもが、私を幸福へと誘っていく。


片膝を立て、そこに自分自身の頭を寄せた。彼女のそれとつないだ左手には、確かな彼女の温もりが伝わってくる。


「愛しているよ、テミス」


囁くようにそう口にすると、彼女が小さく笑ったような気がした。


私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。



― Fin ―



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