Sognate〜3〜




それから、ザルガバース卿は以前よりも少しだけ頻繁に店に顔を出してくれるようになった。最初は相変わらず恐縮してしまっていた私だけれども、思った以上に気さくな彼の人柄に、次第にその緊張も解れていった。


「ザルガバース卿、新しい本が入荷したのですが、ご覧になりますか?」
「テミス」


本に手を掛けた私に、彼はとがめるような口調で呼びかけた。


「『ザルガバース』でいいと言ったはずだが?」
「う……でも……」
「もし君がそう呼び続けるのであれば、私も『テミス様』と呼ぶことにしよう。女神には最大限の敬意を払わなくてはいけないからね」
「やめてください!ザルガバース卿……!」
「なんでしょう、テミス様?」


まるでいたずらっ子のような顔をしてそう言われてしまえば、私は何も返すことが出来ない。


「……わかりました。ざ、ザルガバース……」
「何か用かな?テミス」


その後はなんだかおかしくなってしまって、私たちは笑いあった。






「テミス、オペラに興味は?」


閉店間際に店にやって来たザルガバースは、唐突に私に尋ねた。


「オペラ、ですか?以前、父に連れられて一度だけ。とても素敵でした」
「そうか。明日の予定は?」
「ええと、お店だけ、です」
「じゃあ決まりだ」
「え?」


わけのわからない私に、彼はいつものように微笑んで言った。


「明日の夜、オペラを観にいこう。迎えをよこすから支度して待っているように」






「どうしよう!」


2階の寝室に駆け上がってクローゼットの扉を開ける。


「オペラってちゃんとドレスアップしなくちゃいけないのよね?そんな服なんて持ってない……!」


きっとザルガバースが観にいくような舞台だ。昔、父と行った小さな街の劇場とはかけ離れた場所なんだろう。そう思って丁重にお断りをした私に「じゃあ私は友人が最大限の好意で譲ってくれたチケットで、一人寂しく会場に赴かなければいけないのだね」と、ひどく寂しそうにそう呟いたのだ。


「なんか、騙されたような気もする……」


「やっぱりご一緒します!」と慌てて告げた私の言葉に一転、いつものあの微笑を浮かべたザルガバースの顔を思い出して、私は盛大にため息をついた。






翌日、私は店をいつもより2時間も早く閉めて支度に取り掛かった。普段あまりすることのない、いつもよりもちゃんとした化粧をして、髪も結い上げた。結局、ドレスは母が若い頃に着ていたシンプルな濃紺のドレスを選んだ。


「お、おかしくないよね?」


時間通りに迎えにやって来たエアタクシーに乗って会場へ向かう間、何度も窓に映る自分の姿を確認する。オペラはとても楽しみだけれど、それよりも今は自分の格好の方が気になって仕方ない。慣れないドレスはなんだか落ち着かないし。





タクシーを降りると、そこは上層階だった。初めて降り立つそこは、空気も人も私のいる中層とはまるで違っている。目の前には荘厳な造りの劇場がそびえ建っていて、想像していたこととはいえ、私はすっかり圧倒されてしまった。


「やっぱり、少し場違いかも……」


同じオペラを観にいくのであろう華やかな人ごみの中で、少し心細くなっていた時、聴きなれた声が耳に届く。


「テミス!」


顔を上げると、人ごみを掻き分けるようにザルガバースがこちらに足早に向かって来ているのが見えた。


「すまない、待たせてしまったね」
「いいえ、私も今来たばかりですから」
「そうか。じゃあ、行こうか」


そう言って差し出された腕に、思わず固まる。そんな私にザルガバースは微笑んで私の腕を取ると、そっと自分の腕に絡めた。そして、私の姿を眺めて眩しそうに口を開いた。


「見違えたよ、テミス。とてもよく似合っている」
「あ、ありがとうございます」


ずっと不安だったことが、そのたった一言で嘘のように消えていく。今度こそ、ごまかしようのないほど赤くなった私の頬を見て、ザルガバースは楽しそうに笑った。






最初は周りの雰囲気に落ち着かなかったけれど、気がつけば、いつしか私はそのオペラに引き込まれていた。場面によってその音を変えて流れる美しい調べ、そしてそれを上回る歌い手たちの圧倒的な声量と染み渡る歌声。その美しい世界に身も心も満たされた私は、フィナーレには会場の誰よりも先に立ち上がり、喝采の拍手を送った。

隣を見上げれば、同じように立ち上がり拍手を送るザルガバースと目が合った。彼に、この感動をどう伝えたらいいのかわからないでいると、ザルガバースはそんな私の気持ちを汲み取ったかのように頷いてくれた。その表情を見た瞬間、胸を埋め尽くしている観劇の感動の他に、何か新しいものが生まれていくのを、私は確かに感じた。






「もう本当に感激しました!まるで今も私の中で音楽が鳴り響いているみたい!」


興奮冷めやらぬ私の言葉を、ザルガバースは楽しそうに向かいの席で聞いていた。


「そんなに喜んでもらえると、誘った甲斐があったというものだ」
「本当にありがとうございました!ああ、本当に来て良かった……!」


観劇の後、私たちは劇場に程近いレストランで遅い夕食をとっていた。ザルガバースが予約していたそのお店はさぞかし高級なところなのだろうと身構えた私だったけれど、そこは、こじんまりとしていて、この界隈にあるとは思えないような家庭的な暖かい雰囲気に包まれているお店だった。


「それに、ここのお料理もとても美味しかったです」


食後の紅茶を一口飲んでそう伝えると、ザルガバースが微笑んだ。


「仕事柄、どうしても堅苦しい店でばかり食事をすることが多くなってね。けれど、いちばん落ち着くのはこういう店だ」
「意外です」
「意外?」
「ええ、ザルガバース家といえば、アルケイディスでも長い歴史を持つ名家ですもの。毎日フルコースばかり召し上がっているイメージがあります」


私の言葉に彼はおかしそうに笑った。


「子どもの頃から高級店でのフルコースは苦手だった。料理の味を感じる前に、マナーばかりうるさく言われてしまってね。出来ることなら今でも毎食町のバルで気楽に取りたいくらいだ」
「本当に?」
「ああ、これは口うるさい執事のロダンには秘密だ」


そう言って笑ったザルガバースの笑顔につられて、私の顔にも笑みが浮かぶ。この人は、紳士的でありながらも同じくらい、まるで少年のような無邪気さを持っている。そのどちらの姿も本当の彼で、きっと誰もがそんな彼の魅力に惹きつけられてしまうに違いない。


―――そしてきっと、私も。






「寒くないかい?」


帰りのエアタクシーに乗り込んでから、彼は私に心配そうに声を掛けた。


「ええ、大丈夫です」


そう答えたけれど、彼は自分の首に巻いていたストールをそっと私の首に掛けてくれた。


「今夜は冷える。家に着くまで、そうしていなさい」
「……ありがとう、ございます」


満足そうに微笑んで、ザルガバースはシートに身を沈めて前を向いた。彼から渡されたそれはとても柔らかくて、暖かくて。そっと息を吸い込むと、ザルガバースのつけているムスクの香りがした。その香りさえ、今の私の胸を熱くさせる。


湧き上がるこの気持ちに、もう気づかないふりなど出来ないと思った。けれど―――。


彼は窓の外に視線を向けていた。それをいいことに、私は彼の横顔を盗み見る。思った以上に長いまつげ、すっと通った鼻筋。薄い唇はきつく結ばれていた。


こんなに近くにいるのに、私なんかには手の届かない遠い人―――。


彼の顔越しに見えた星空が滲んできたのに気づいた瞬間、不意に彼がこちらを向いた。私の涙に気づいたのか、僅かに驚いたような色を浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。


「あ、あの、すいません。なんか、目にゴミが入っちゃったみたいで……」
「テミス―――」


取り繕おうとする私を、ザルガバースは制す。

「驚かないで聞いて欲しい。―――テミス、私は君を愛してしまった」


彼の発した言葉に、驚きの色を浮かべたのは、今度は私の番だった。


「ザルガバース……?」
「堪えようと思った。堪えるべきだった。まだ若い君の全てを欲しいと思うことなど、この私には不相応なことだと」


彼に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、胸の鼓動が高まる。嬉しいと、そう思う反面、これはあってはならないことなのだという思いも湧き上がる。


「……そんな、でもザルガバース、私とあなたとでは身分が違いすぎます。きっとあなたはいつもと違う世界を過ごしたことをそう勘違いしているだけ―――」
「違う!―――じゃあこの胸の痛みはどう説明すればいい?」


苦しみを堪えるその瞳から、目を逸らすことが出来ない。


「どうか私を受け入れて欲しい―――」
「ザルガ、バース……」


触れた唇から、つい先ほどまで蓋をしなければとそう思っていた想いがあふれ出す。




「テミス、愛している―――」


触れる距離で愛しげに私の名前を象るその唇にも、そして自分の想いにも、抗うことなど出来るはずはなかった。




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