Sognate〜2〜




「嘘、でしょう?」


電話を切った後、私はそう口にしていた。今しがた掛けたばかりの電話に驚きを隠せない。



あの彼から依頼された本を無事ビュエルバで仕入れることが出来た私は、入荷したことを伝えるために、メモに書かれていた場所へ連絡を入れたのだ。応答したのは、いかにも品のよさそうな声の初老と思われる男性。


『申し訳ございません、旦那様は3日前から皇帝宮に詰めておられまして。お戻りは明日以降になるかと。ああでも、旦那様から伺っておりましたので、確かに伝えさせていただきます』


―――旦那様 皇帝宮―――


「やっぱり……そうよね……」


その言葉で、やはり彼はあのジャッジマスターのザルガバース卿であるのだと、そう私は確信した。確かに身につけている服はすごく質が良さそうなものばかりだったし、立ち振る舞いだって他の人とはどこか違っていた。


「ああ、もうどうしよう……」


私は頭を抱えてへたり込むしかなかった。






「申し訳ありませんでした!」


数日後、やって来た彼、ザルガバース卿に私は頭を下げた。


「あのザルガバース様とは存じ上げず、私、ご無礼を―――」
「待ちなさい」


頭を下げたままの私にザルガバース卿は驚いたように声を掛けた。


「あなたは私に謝るようなことは何一つしていません。どうか頭を上げてください」
「でもっ……」
「じゃあお聞きします」


彼は穏やかな声で私に問いかけた。


「あなたは私がジャッジマスターだと知っていたら、他の客たちと対応を変えていたのですか?」


おそるおそる顔を上げると、「いかがですか?」と彼は声の通りの穏やかな表情で再度そう問うた。


「あの、いえ、他のお客様も私にとっては大切な方たちなので、そのようなことは―――」


そう答えると、彼は満足そうに微笑んだ。


「それと同じです。私もあの堅苦しい鎧を脱げば、ただのひとりのアルケイディス市民だ。だからあなたが気に病むようなことはひとつもない」






「本当にありがとう」


ビュエルバで仕入れてきた本を手にして、嬉しそうにザルガバース卿は言った。


「いいえ、状態もいいものが見つかって、本当に良かったです」
「また、何かあったらお願いしても構わないだろうか」
「ええ、もちろんです」


店を後にする彼をドアまで見送る。


「ぜひ、またいらしてください」
「ああ、そうさせてもらうよ。じゃあまた、テミス」


思いがけず呼ばれた名前に、私は驚く。


「すまない、前に他の客がそう呼んでいたのを聴いたのだが、違っただろうか」
「あ、いえ、そうです。テミスです」
「そうか。女神の名前だね。君にとてもよく似合っている」




「テミス?」


はっと顔を上げると、目の前にコティさんの奥さんが立っていた。不思議そうに私の顔を覗き込んでいる。


「あ、ご、ごめんなさい!」
「大丈夫?疲れてるんじゃないの?」
「ううん!違うの!」
「そう?」


心配そうな奥さんに向かって、私は「大丈夫」と繰り返した。


「これ、ちょっと作りすぎちゃったからお裾分け。良かったら食べて頂戴」
「わー、コッカトリスの香草焼き!私これ大好きなんです!」
「それは良かったわ」


御礼を言ってコフィさんを見送ってから店じまいをして、まだ温かいお皿を持ってカウンターの横にあるドアを開けた。ドア一枚隔てたそこが、幼い頃から暮らしている私の家だ。




『テミス』


ダイニングテーブルにお皿を置いた瞬間、ザルガバース卿の声が蘇ってきた。そして同時に、胸の鼓動が少し早まったような気がした。それをごまかすようにキッチンで手を洗い、夕食の準備に取り掛かる。頂いた香草焼きに合う付けあわせを考える。けれど困ったことになかなか思い浮かばない。


「ああ、もう!名前を呼ばれたくらいでこんなに動揺するなんて!でもだって、ジャッジマスターと話をすることなんてありえないことだと思ってたんだもの!そうよ、それで未だに緊張しちゃってるんだわ!」


無理やり自分をそう納得させて私はひとり頷いた。




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