L'oiseau bleu〜7〜



「テーブルに置いておくよ。頼まれてたお茶」

ことり、と茶葉の缶が置かれた音が耳に届いた。

「ありがとう、マライさん」
「あんたも好きだねぇ。たまには他のもん欲しくないのかい?まあ、贅沢は出来ないけどさ」

その言葉にゆっくり首を振って答えると、マライさんは溜息をついた。

「まあ、とりあえず火傷だけはするんじゃないよ。あたしが叱られちまうんだから」


そう言い残してマライさんが部屋を出て行った後、私はテーブルの上に置かれた缶を手に取った。蓋を開け、缶を顔に近づける。

「いい香り―――」




「いらない」と断られるかもしれないと不安を抱きながら淹れたお茶を、あの人は静かに飲み干して「旨かった」と言ってくれた。

ここを訪れて、朝までソファで体を休ませて帰っていく人。

なぜ、ここへ来てそんなことをするのかと戸惑ったけれど、ごくたまに発せられる声がどこか疲れているようで。理由はわからないけれど、ここでそれを癒しているのなら少しでもその手助けが出来ればと、以前母に教わったハーブティーを淹れるようになった。本当は、あの人に寝室で休んでもらうのがいいのだろうけれど、あの寝台を使ってもらうことはやはり躊躇われた。





目が見えなくなってからしばらくして、私は声や足音でその人がどんな姿をしているのか感じることが出来るようになっていた。


きっとあの人は背が高い。―――いつも声が私のずっと上の方から聞こえるもの。

そして、きっと身体は鍛えられているのか、がっしりとしているはず。―――声がとても低くて落ち着いているし、足音はしっかりと力強いもの。

じゃあ、髪の毛は?瞳の色は?

私にはそれを知るすべはない。けれど、なぜかとても知りたいと思った。この光のない生活を始めてから、誰かに対してそう思うのは初めてのことだった。





「……13、14、15……」

寝室のチェストに置いた小皿の中のガラス玉を数える。これは私が日付を知るためのもの。毎朝目が覚めてから、右の皿からひとつ左の皿へとガラス玉を移す。

「……28」

あと少しで、ひと月になる。―――あと少しで、あの人がやって来る。そう思いながら、そっと胸元のペンダントに手を伸ばした時、背後のドアが乱暴に開かれた。その音に驚いて体がびくりと震えた。

「珍しいじゃないか。俺が来たことに気がつかなかったのか?」

その声は、ここによく現われる男のものだった。いつもならば部屋の鍵が開いた時点でやってきたことに気付くのに、今日はこの部屋のドアが開かれるまで気づけずにいた。男はなぜか楽しげにそう言いながら、次第にこちらに近づいてくる。

「まあ、いつもベッドの中での出迎えだからな。こういうのも悪くはない」
「……っ!」

男はぐいと私の手首を掴むと、そのまま寝台へと放り出す。咄嗟に逃れようとしたけれど、すぐに男に圧し掛かられ、それは叶わなかった。

「なあ、最近どうしたんだ?随分つれないじゃないか」

男の顔が私の鼻先まで近づけられ、きついアルコールの匂いが吹きかけられる。その匂いに、私はきつく目を閉じた。

「―――男でも出来たのか?」



その言葉に、胸の中になぜかあの人の事が浮かんだ。


……どうして、あの人が―――?


けれど、私のその思考はすぐに閉ざされた。私に跨った男が、力任せに私の身に付けていた夜着を引き裂いたのだ。

「やっ……!」
「許さないぞ……そんなの認めないぞ!!」

男は私の体を押さえつけながら、次々に私の服を剥いでいく。その手がペンダントのチェーンにもかかり、ぶつりと首から離れていくのがわかった。

「あっ……!」

それを追おうと手を伸ばそうとしても、私の身体を押さえつける男の力で身を起こすことさえ出来ない。


「この髪も!腕も!胸も!脚も!全部俺のものだ!」

そう言いながら、男の手は乱暴に私の身体をなぞっていく。いつもであればじっと、全てが終わるまで目も口も、心さえも閉ざしてそれらが過ぎ去るのを待つのに、なぜか今日はそうは出来なかった。その節くれだった手も、かさついた唇も、吐き出された生温い息も、全てがひどくおぞましかった。

「……いや……やめて……っ!」

けれど、その言葉が男の神経をさらに逆撫でしたようだった。一瞬の間を置いて、顔に激しい痛みが走る。

「っ……!!」
「誰に向かってそんな口をきく!」

そう叫びながら、男の拳が次々に私へと振り下ろされた。痛みが全身を襲う。逃げることも、抵抗することも出来ない。


口の中に広がる血の味を感じながら、私は自分の身を縮め、じっと耐えることしか出来なかった。






翌朝男が帰った後、マライさんはあの男への悪態をつきながら、傷の手当をしてくれた。

「まったく!あの男、ただじゃおかないよ!……これじゃあしばらく客だって取れやしない」

その言葉を聞いて、あの人も来ないのかと思うと、寂しいような、ほっとしたようなそんな気持ちになった。



けれど、あの人はやって来た。なぜマライさんが部屋に通したのかはわからない。



あの人がドアの外から呼びかけた。初めて、そう名前で呼ばれたのに、それがひどく辛かった。


お願い、来ないで。こんな私を見ないで……!この人にだけは、こんな姿見られたくない―――!


そう願ったけれど、あの人はその目に私の姿を捉え、息を呑んだ。マライさんが悲鳴を上げたくらいだ。きっと私の身体は酷いことになっているのだろう。戸惑っているのが、空気を通して私にも伝わった。それがいたたまれなかった。


……誰がこんな……!」


身体に残る痛みよりも、胸を締め付ける痛みの方が強かった。胸が苦しくて、痛くて、いっそ消えてしまいたかった。


「お願い……っ、ひとりに、して……っ」


込み上げる嗚咽を抑えながら、あの悪夢のような時間の後必死に探しだしたチェーンの切れたペンダントを握り締め、私はうわ言のようにそういい続けた。



2010.5.30

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