L'oiseau bleu〜6〜



「今日も、いつものお茶でいいですか?」
「ああ」


ソファに腰掛けながら答えた俺には軽く頷くと、そのまま部屋の隅に設えられている簡素なキッチンへ向かった。

慣れた手つきで湯を沸かし、まずはティーポットとカップを温めてから、それらを慎重にひとつずつテーブルへと運ぶ。それから、茶葉をスプーンで掬いポットに入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。注ぐ湯は、ちょうどカップふたつ分だ。

始めてその様子を目の当たりにした時は、熱い湯を彼女が扱うことにひどく驚いたものだ。目の見えない彼女は、一歩間違えばその湯で火傷を負いかねない。だが、彼女にそんな心配は無用だった。思わず手を出そうとする俺などおかまいなしに、なんの戸惑いもなく、お茶を淹れ始めたのだ。

耳に届く音で、火にかけた湯が沸くタイミングを知り、注ぎ入れた湯の量を測る。

その自然な流れが、俺に彼女が光を失った長い年月を感じさせた。



「どうぞ」

差し出されたのは彼女いわく、気分が落ち着くというハーブティー。ほんの少し蜂蜜が入れられているが、甘さはさほど気にならない。俺がカップを手にし、口をつけるのを耳で確認してから、も同じようにカップに口をつけた。




この部屋へ来るのは今夜で7度目。このハーブティーを飲むのは3度目だ。

月に一度、ここへやって来て何をするでもなく朝まで過ごす俺に、は最初の頃はやはり警戒心を持っていたようだった。たとえ自ら望んだものではないにしても、自分を買ったはずの男が自分に触れることもなく、ただ朝までソファで過ごすのだから当然だろう。だが、5度目にこの部屋へ足を踏み入れた俺に、はおずおずとこのハーブティーを出してくれたのだ。

「母が、お茶の淹れ方を教えてくれたんです」

ぽつりと、はそう呟いた。

その表情は悲しげであったが、その時からは警戒心を薄れさせ、微かにではあるが微笑を浮かべるようになった。




灯りが消されたぼんやりと闇に包まれた部屋で、俺はソファに横たわり天井を見上げた。


―――俺は一体、何をしに、何のためにここへ来ているのだろうか。


安くない金を払い、そのくせ彼女に触れることもなく、このソファで窮屈な思いをしながら朝までわずかな睡眠をとる。他人から見れば馬鹿な男だと思われるだろう。それは至極、当然の事だった。

「あんた、よっぽどあの子が気に入ったんだね」と言った俺をいつもここまで案内する女も、俺がまだ一度も彼女を抱いていないのだと知ったら驚くに違いない。



けれど、唯一俺自身がわかっているのは、ここへ来るとひどく心が安らぐということだった。第9局の副官として、毎日を目の前の仕事と時間に追われ、母国を滅ぼした敵国への憎しみさえも思い出す間もないほどの日々。ジャッジとしての自分から解放されるせいなのか、皇帝宮内に与えられた、ここよりも広く豪華な私室よりも、この部屋は落ち着ける場所だった。


その理由のひとつに、が入っているのかは正直わからない。顔を合わせる時間が増えたとはいえ、俺たちはまだ互いの事をほとんど知らなかった。身の上話をするでもなく、ただ彼女の淹れたお茶を飲み交わす。この数ヶ月の間でわかったことといえば、の食事は午前と午後の2度、このアパートメントの2階にいるあの女が運んできているのだということ。そして、その女の名がマライということだけだった。




次第に自分の体から力が抜け、瞼が重くなっていくのを感じた。僅かに首を動かすと、まだ足を踏み入れたことのない彼女の寝室へと続くドアが目に入った。


彼女は俺がいる間、ちゃんと眠れているのだろうか……―――。


意識が途切れる直前、俺はぼんやりとそう思った。





「会えない?」

そう切り返した俺に、女…マライは溜息混じりに頷いた。

いつものようにあらかじめ指定していた日の夜、あのアパートメントのマライの部屋の前で顔を合わせてすぐ、彼女は「悪いけど、今夜はキャンセルしておくれ」と告げた。

「……他に客が入ったのか?」
「そういうわけじゃないよ」
「体調でも崩しているのか?」

マライはほんの少しだけ躊躇してから、「まあ、そんなところだよ」と答えた。だが、その表情が僅かに曇ったのが気になった。

「じゃあ、顔を見るくらいなら構わないだろう」
「今は誰にも会わせるわけにはいかないんだよ。諦めておくれ」
「体調が悪いのならなおさらだ。ちゃんと医者には見せているのか」
「もう、またにしてくれって言ってるじゃないか!」

ヒステリックにそう叫んだマライは、じっと見つめる俺の視線に気付き、ばつが悪そうに目を逸らした。

「……無理強いはしない。約束する」

俺はそう言い、上着のポケットから出した金をマライの手に握らせた。





部屋の鍵が再び掛けられ、マライの足音が次第に遠ざかっていく。彼女は1時間後にまた戻ってくることになっている。

部屋の中に目をやると、灯りはついておらず、窓から差し込む月の灯りだけが部屋の中に差し込んでいた。だがその月も、雲に閉ざされさらに部屋は闇に包まれた。その暗がりに目が慣れてから、俺は足を進めた。

いつものソファ、テーブル。それらを横目に見ながら、寝室のドアの前に立つ。そして、そのドアを静かに叩いた。

「……

呼びかけたが、返事はなかった。

―――眠っているのだろうか。

ほんの少しの戸惑いの後、俺はゆっくりとドアを開けた。暗がりの中に見えるそこに置かれているのは、その部屋には不釣合いなほど大きな寝台と、質素な部屋からはかけ離れた華美な寝具だった。それらを初めて目の当たりにし、が娼婦であるという事実を改めて気づかされたような気がした。

今さらそんなことに惑う自分に困惑したが、その想いを何とか沈め、寝台の中央でシーツを全身に覆い、横たわっているに声を掛ける。

、気分はどうだ?」

だが相変わらず返事はなかった。眠っているのを起こしてしまうのは忍びなかったが、俺の声に僅かに身じろぎしたように見え、もう一度声を掛けようとした時、搾り出すような声が耳に届いた。

「……て」
……?」
「……帰って……」
「え?」
「……帰って、ください……」

それは間違いなくの声だったが、いつもに増して弱々しく、そして掠れていた。「帰れ」と言われ、拒絶されたようでそれに傷つく自分がいたが、確かに俺にはそうするしかないように思えた。けれど、なぜかそうは出来なかった。それは、が身を隠しているシーツが震えていることに気づいてしまったからなのかもしれない。

「気分が悪いのか?薬は……」

ほとんど衝動的に寝台に近づき、を覆っているシーツに手をかけた。

「……っ!」

突然シーツを捲り上がられたことに驚き、は声を上げた。

「いやっ……!!」

そして彼女が再び俺の手からシーツを引き寄せようとした時、雲に隠されていた月が姿を現した。その瞬間、俺は驚きのあまり声を失った。




月明かりに照らされたのは、顔に痛々しい傷を負った、の姿だった。



大きな瞳の傍には赤黒い痣。そして、唇の左端には頬まで覆われた白いガーゼ。


「……その傷は……?」
「や……っ、見ないで……!」

は俺の問いに答えることなく、両腕で顔を覆うようにして俺の視線から逃れた。だが、その腕にもいくつもの痣が浮かんでいた。視線を下に落とせば、シーツの合間から覗く細い脚にも、同じような痣。


―――明らかに、誰かにつけられたもの。


胸の中に戸惑いと同時に怒りが湧き上がる。

よほど強い力でなければ、こんな跡は残るはずはない。それも一箇所じゃない。おそらく全身にあるに違いない。一体誰がをこんな目に―――彼女の客?それともマライが?

……誰がこんな……!」

だがは、まるで自分の体を守るようにきつく腕を回し、その問いに答えることなく激しく首を振るばかりだった。

「お願い……っ、ひとりに、して……っ」



その華奢な体を震わせ、搾り出すように嗚咽まじりの声が紡がれる。俺はそれ以上問いただすことも、ましてや声も掛けることさえできずに、その場に立ち尽くしていた。


彼女の少し癖のある銀糸の髪が、そんな彼女の顔を隠すようにふわりと肩から落ちていった。



2010.5.26

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