L'oiseau bleu〜55〜
バッシュさんが話してくれたことで、私の頭の中でバラバラだったパスルがぴたりと合わさった。
ランディスでバッシュさんと別れ、身体の弱かったお母様とともにこのアルケイディスへと移ったこと。そして、ここでノアが辿ってきたすべてのこと―――。
ノアは自分ひとりになっても、残されたお母様を守りたかったのだろう。だからこそ、国を亡くした苦しみ、哀しみをその胸にしまいこんで帝国へと移り、自分の母国を滅ぼしたはずのアルケイディア軍にも入隊した。
だからこそ、大切なお母様を亡くされた後、ノアはどんなに大きな哀しみを背負って生きていたんだろう。あんなにも優しい彼は、たったひとりでどんな想いを―――。
辛かっただろう。苦しかっただろう。抗えない波に飲まれたまま自分の本当の気持ちとの狭間で、きっと長い間誰に弱音を吐くこともしないで、誰よりも優しい彼は自分を責め続けてきたに違いない。
私は本当にノアのことを知らなかった。ノアの優しさに甘えて寄りかかってばかりで、ノアの苦しみにさえ気づいてあげられなかった。
―――。
突然、君を残していってしまったこと本当にすまないと思っている。
君を傷つけてしまうのだと、そうわかっているのに、こうするしかなかった俺をきっと君は嘆くことだろう。
けれどこれだけは信じて欲しい。
君に出会えて本当に嬉しかった。
短い間でも、共に生きることが出来て本当に幸せだった。
生きてきて良かったと、そう思えたのは、君がいてくれたからだ。
愛している、。
君だけが、俺の幸福の全てだった。
クリスタルの中に閉じ込めたあの言葉だけを私に残して、あなたは消えてしまうつもりだったの?
「ノア、ノア……」
力を失ったままだけれど、温もりはそのままの大きな手に頬を寄せた。
あなたの低くて穏やかな声が好きだった。
その声で名前を呼ばれるたびに嬉しくてたまらなかった。
あなたの温かなその手が好きだった。
その手で触れられるたび、どんな言葉をもらうよりも安心できた。
あなたのキスが好きだった。
目が見えない私が驚かないように、いつも額や鼻先に触れてから落とされる唇へのキスが、泣きたくなるほど幸せだった。
あなたがくれるすべてのものが、私を幸福にしてくれた。
―――ずっと俺は君の傍に。
そうあなたは言ってくれたのに。話したいこともまだたくさんたくさんあるのに。私は何一つ、あなたに何も返してあげることが出来ずにいるのに―――。
これまでノアがしてくれた分、出来る限りのことを私もあなたにしてあげたい。私が出来ることなんて、ほんの些細なことでしかないかもしれないけれど、それでも私はあなたが望むのならば、ずっとあなたの傍で生き続けたい。
「ノア、だからお願い、目を開けて―――」
祈るようにそう口にした時、不意に微かな風を感じた。
「……?」
部屋の窓は開いてはいないはずなのに。そう思いながら顔を上げると、風と共にほのかな熱が湧き上がってきていることに気づいた。感じた熱の先に手を伸ばすと、指先に触れたのは首から提げていたペンダントだった。
「……っ!」
それに気づいた瞬間、風は急激にその強さを増していき、ごうごうと音を立てて私の周りで渦を巻くよう吹き始めた。
これは何?一体何が起きているの……?!
「っ……ノア……っ!」
得体の知れない何かに飲み込まれていきそうなその感覚が恐ろしくて、繋ぎとめるように必死でノアの手を握り締めた。
「!」
遠くでバッシュさんの声が聞こえた瞬間、私はこの目では見えるはずのない眩い光に包まれた。
―――ここは、どこ?
私はどこまでも真っ白な空間の中にいた。見渡す限りの白い世界。闇以外の色を感じているのは、これが夢だからなのだろうか。ぼんやりとそう思いながら、それでも私は何かに引き寄せられるように歩き続けていた。
どうして、私はここにいるんだろう。確か、ノアの病室にいて、ノアの手を握っていて、それで―――……
そこまで記憶をたどった時、ずっと彼方に、まるで白いキャンバスにポツリとインクを落としたような黒い点が見えた。その点は徐々に、けれど確実にその大きさを増していく。
怖い、と思った。けれど、それと同時にそこへ行かなくてはいけないと思った。耳には届いていないけれど、誰かが私を呼んでいるような、そんな気がしたから。そう感じた瞬間、私の足はそれに向かって走り出していた。けれど、必死に足を前へ進んでもそこへはなかなか近づけなくて、そうしているうちに息が切れて苦しくて―――。それでも、私は導かれるようにただひたすらに走り続けた。
やっとの思いでたどり着いた目の前に迫った闇は、まるで生きているかのように不気味にうごめいていた。それはすでに私などたやすく飲み込んでしまいそうなほどに広がっている。思わず後ずさりしそうになるけれど、ぐっと足を踏みとどめた。その揺らめく闇の中に、時折姿を見せる小さな光。それを確かめるために私は目を凝らす。
―――あれは……
「ノア……!!」
ほんの少しだけ見えたその姿に、私は思わずそう口にしていた。私の目はノアの姿を一度も映し出したことなどないのに、なぜかそう確信できた。この目は知らなくても、それ以外の私の全てが彼はノアだと叫んでいた。
うねる闇に必死に手を伸ばす。指先が触れそうになると、再びノアは闇に飲み込まれていく。それはまるで私を遠ざけるように―――。
「ノア!ノア……っ!!」
手を伸ばしながら、ありったけの想いをこめてその名を呼び続けた。
こんな闇にノアを連れてなどいかせない。ノアを苦しめるものを、すべて私が取りさりたい。それは私の身勝手な願いかもしれない。それでも、ノアに心からの笑顔を浮かべて欲しい。生きていて良かったと、何度でもそう思って欲しい―――。
「ノア……っ!!!」
黒い渦に身を投げ出し、闇に包まれかけていたノアを抱きしめる。この腕に感じる身体の温かさ、そして懐かしい匂い。
ああ、そうだ。やっぱりあなたは―――……
「―――ノア―――」
頬に感じる温もりに導かれるように、閉じていた瞼を持ち上げる。その瞬間、目に差し込んできた、感じるはずのない白い光。その眩しさが痛くて思わず目を細める。
「」
けれど、耳に届いたその声にゆっくりともう一度目を開いた。そんな私の目に飛び込んできたのは、まばゆいばかりの光と、そしてあの闇の中で目にしたその人―――。
「ノア……?」
私の頬を撫でていた手を止めて、ノアは「ああ」と微笑んだ。
「……」
「……ノアっ」
手を伸ばしてその頬に触れる。初めて映した姿なのに、どうしてか懐かしさがこみ上げてくる。確かめるようにその輪郭をなぞって、ブルーグレイの瞳を見つめた。
「……目が……」
私の変化に気づいたノアが、驚いたように目を見開き、ゆっくりとその手を私の方へと差し出した。少し震えるその手を両の手で取って、私は自分の頬に押し当てる。
「ええ、見えるの。この手も、あなたの顔も、みんな―――」
一体私に何が起こったのか。10年以上も光を失ったままだった私の目は、今、確かに光を感じていた。あの夢の続きかもしれない。けれど、この頬に感じる温かさは現実のものだ。ずっとこの目で見たいと思っていたノアの姿を、私の目は映し出している。
「このペンダントが光って、それから―――」
そう言って指を添えた瞬間、鳥を象っていたそれはまるではじけるようにパリンと音を立てて砕けた。驚く私とノアの間で、さらさらと砂のような細かい粒になって私の指の間をこぼれていく。
『ええ、幸福をもたらす青い鳥』
『きっとも、うんと幸せになれるわ』
あの日エミリアさんが、そして幼い日に母が言ってくれた言葉が蘇り、胸に言葉に出来ない思いがこみ上げていく。
「幸福の青い鳥―――……」
「……?」
「……ううん、なんでもないの」
ノアの手を握り返して微笑んでみせる。
「でも良かった……ノアが目を覚ましてくれて―――」
私の言葉に、ノアの指先が弱いながらも確かに私の頬をそっと撫でた。
「―――ずっと、真っ暗な闇の中にいた。どんなにもがいても逃れられないと、そう悟ってこの身を委ねようとした時、君の声が聞こえたんだ」
そう言って私を見つめるノアの瞳に、私の姿が映る。
「そして、暗闇の中に見えた唯一の光の中に、君がいた。、君が俺を救い出してくれたんだ。君がいてくれなかったら俺は―――……」
―――夢だと、そう思っていたけれど、あれはそうではなかったの?
私の目から溢れ出した涙がノアの手を伝って流れていく。涙でぼやける視界を何度も拭いながら、ノアの顔を真っ直ぐに見つめた。これまでの分を取り戻すように、しっかりとその姿をこの目に焼き付けたかった。
「でも、私にもう一度生きる道を与えてくれたのはあなたよ、ノア。あなたがいなかったら、私はここにいることも、こんなにも幸福を感じることもなかった。ノア、それを私にくれたのは、全部あなたなの―――……」
生きる意味を見失い、ただ死んだように生きていた私を助け出してくれた人。
たくさんの優しさと、そして溢れるほどの愛情を注いでくれた人。
私にとって、何よりも愛おしくて大切な人―――。
「愛してるわ、ノア。あなたがそうだと言ってくれたように、私にとってもあなたが私の幸福の全てなの」
だからこれからも、ずっとずっと、私の傍にいて欲しい。
もっとあなたの声を聴きたい。
何度でもあなたに抱きしめて欲しい。
「―――」
唇が重なったその時、空へと飛び立っていく鳥の羽音が聞こえたような気がした。
2012.6.20
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