L'oiseau bleu〜54〜



は?」

1日の任務を終えてノアの元へと向かった俺は、ちょうど病室から出てきたマーサに声を掛けた。

「相変わらず旦那様につきっきりで……お食事もほとんど召し上がらなくて。このままでは様までお倒れになってしまいますのに……」

皺の浮かんだ目尻をさらに苦しげに細めて彼女は答えた。

「そうか……」



病室に入ってから、被っていた兜を外す。

ノアはあの大戦の直後、ラーサー様の計らいで皇族や軍の高官のみが利用できるこの医療施設に『ジャッジガブラスの遠縁にあたるジャッジ』として運び込まれた。軍直轄の施設であるため容易に内部情報が漏れることはないが、元老院が今後どんな動きをするのか予想できない中、運び込まれたのがジャッジマスター本人であり、9局で指揮を取っている男が偽者であると知れれば、これから立ち直ろうとする帝国の足元を揺るがしかねない。いくら血縁者と名乗っていても瓜二つの顔を晒すことははばかられたため、こうして施設の関係者が誰もいない時の病室でのみ、俺は兜を外すようにしていた。



まるで俺が部屋に入ったことにさえ気づかぬように、はいつものようにベッドの傍らでただじっとノアの手を取り続けていた。

、少し休んだほうがいい」

そう声を掛けたが、は小さく首を振る。このやりとりも、もう1週間になる。どんなに俺やマーサがそう言っても、は頑なに首を振り続けた。



二人がどんな風に出逢い、これまで過ごしてきたのか。マーサに聞いたその話に、俺はどこか安堵する自分がいたことを否定できなかった。

俺がランディスを出た後、病を患った母のために敵国である帝国に流れ、従うしかなかったノア。苦しかったであろうその暮らしの中で唯一の拠り所であった母を亡くし、それでも尚、帝国軍に身を置き続けたその葛藤や心情は、想像に難くない。けれど、そんな中と出逢ったことが、の存在が、どれほどノアにとって救いであっただろうか。

だが、そう思うことで自らの罪をほんの僅かでも消し去ろうとする自分がどうしようもなく卑しく思えて仕方がなかった。俺がノアを追い詰めたこと、苦しめたことは、消しようのない事実だというのに。



ランディスが帝国に敗戦した時からこれまでの間にあった全てのことをに語る間、はただ黙って俺の話に耳を傾けていた。そして全ての話が終っても、彼女は俺に何を言うこともなかった。ノアをこんな風にしたのは俺なのだと、そう罵ってくれたら、泣き叫んでくれたらどんなに良かったか。けれどは俺の話を聞く前と変わらぬ表情で、ノアの頬を愛しげに撫でただけだった。




「………!」

不意に流れてきた旋律に、俺ははっと意識を取り戻した。聞き覚えのあるその曲。それは、の手の中から流れてきていた。

、それは」
「……以前、ノアが私にくれたものです。よく、お母様が歌ってくれた生まれた国の曲だって」


そのオルゴールの音色と共に、俺の中に幼い頃の思い出が蘇る。まだ遊び足りずになかなか寝ようとしない俺たちのために、母はいつもこの歌を歌ってくれた。それを聴くとひどく安心して、俺もノアもすぐに眠りについていた。


「あなたの話も、その時初めて聞きました」
「俺のことを?」
「はい。本当にそっくりで、いつも一緒だったって」
「……そうか」


その時のノアの心情を推し量りながら、ふとの手にあるそのオルゴールに視線を移した時、その中に収められていたあるものに目が留まった。

「それは……」

俺の言葉に、ややあってからが俺の言葉の意図することに気づいた。

「これは、ノアが私の部屋を発つ前に渡してくれました。自分の、とても大切なものなんだと、そう言って」


の手で差し出されたそれを目にした瞬間、俺は嗚咽が自分の喉から湧き上がるのを抑えることが出来なかった。

「……バッシュさん?」

突然のことに驚いたが心配そうに声を掛けてくれたが、俺はそれにも応えることが出来なかった。



『これで俺たちもランディス騎士団の一員だ!』
『このペンダントと剣に誓って、俺はこの国を、ランディスを守る!』
『ああ!』
『その誓いにお互いのペンダントに名前を刻まないか?バッシュのペンダントには、俺の‘N’を』
『じゃあ、ノアのペンダントには―――』



の手から、震える手でそのペンダントを受け取る。ランディスを守る守護神として遠い昔から伝わる鳥の神を象ったランディス騎士団のペンダント。ゆっくりとそれを裏返せば、騎士団になりたてのまだ少年だった自分が彫った‘B’の文字―――。


『これでなにがあってもずっと一緒だ』


そう言って、誇らしげに、そしてどこか恥ずかしげにそう言ったノアの顔が蘇った。

「……っ、ノア……おまえは俺を、憎んでいたのではなかったのか……」

兄として、何一つしてやることも出来ず、おまえをここまで追い詰めたというのに。鎧越しに自分の胸元に手をあてた。そこには‘N’の文字が彫られた、これと対になるペンダントがある。


「―――ノアは」

ペンダントを握り締める俺の手に、俺よりも白く小さな手が添えられた。

「心からあなたを憎みきることが出来なかったんだと思います。あなたが国を去った気持ちも、その時の辛さも、きっとわかっていたはずです。―――ただきっと、あなたに憎しみを抱こうとすることでしか、この国で生きていく自分を認めることが出来なかった……」
「っ……」

俺は子どものようにの手にすがった。まるでノアの言葉を代弁するような、いや、それは間違いなくそれはノア自身の思いではないかと、そう思えて仕方なかった。俺に手を預け、痛みを共に静かに受け入れているかのような表情を浮かべる



ノアが愛し、そしてノアを愛した女性―――。



『守りたいほど守れはしない』


バハムートの中で対峙した時、ノアは苦しげにそう告げた。

だが、それは違う。おまえが愛したひと、。おまえはずっと彼女を守り通してきたじゃないか。


ザルガバースから彼女の存在を聞き、俺はすぐにその人物を探し始めた。だが、ノアの元にはその手がかりとなるものは何ひとつ残されてはいなかった。まるで意図的にその痕跡を隠しているかのように。名前もわからない女性を見つけ出すことは不可能ではないのかと、そう諦めかけていた時に、あの指輪を見つけた。その指輪に刻まれた名を頼りに再び動き始めてすぐ、俺は彼女の暮らす皇帝宮近くの部屋を突き止めた。三月ほど前、彼女名義に変えられたその部屋。その前の所有者の名は『ノア・フォン・ローゼンバーグ』。


帝都へと移り住んだ時に捨てたと俺に告げたその名を使ったのは、を守りたい、ただその想いからだけだったのではないのか?




「ノア」

あの頃と同じように、自分と少しも変わらない同じ顔に呼びかける。

おまえには大切なものが、守らなければならないものがあるだろう。
を、彼女を幸せにすることが出来るのはおまえだけだ。だから―――。

「目を覚ましてくれ、ノア―――」



2012.5.5

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