L'oiseau bleu〜53〜
そこはとても静かな空間だった。他には誰もいないのではないかと思うほどの静けさ。窓から吹き込む風の香りに混じって届く、つんとした消毒薬の匂いが、ここがどんな場所かを私に教えてくれる。
『バッシュ・フォン・ローゼンバーグ。ノアの双子の兄だ』
突然私の元を訪れたその人は、ノアに良く似たその声でそう告げた。
バッシュ―――。
その名前を耳にしたのは初めてではなかった。いつか、眠っているノアがうなされながら苦しげにこぼした名前。ずっと前に別れたきりだったというその人が、なぜ私の前に現れたのか。困惑する私に、彼は告げた。
『一緒に来て欲しい、ノアが待っている』
たどり着いた部屋の中をバッシュさんに導かれ、ゆっくりと足を進めていく。一歩踏み出すごとに不安に包まれる。早く会いたいと、そう願っていたはずなのに、同時にそれが怖いと思ってしまう自分もいた。だんだん近づいてくる無機質な機械音が、私の不安をさらに煽る。
数歩進んだところで、バッシュさんは私の背から手を離した。それが合図なのだと悟り、私は震える喉に息を吸い込んでから口を開いた。
「ノア……?」
けれど、その呼びかけに返答はなかった。押しつぶされそうな気持ちを奮い立たせ、ゆっくりと手を伸ばす。
指先に触れた肌の感触。そっと手を滑らせて、それが横たえられている腕だと知る。記憶よりも少しだけ細いように思えるその腕だったけれど、確かに伝わる温もり。不安と安堵で板ばさみになりながら、私はさらにゆっくりと慎重に指先を辿らせていく。柔らかな髪の毛、閉じられた瞼、真っ直ぐに通った鼻筋。そして、結ばれたままの唇。触れた指先は確かに彼を覚えていた。
「ノア」
さっき呼びかけたよりも、確信を持った声が自分の口からこぼれる。
間違いない。ここにいるのはノアだ。この髪は、瞳は、唇は。慈しむように私に触れてくれたこの手は―――。
「ノア―――」
祈るようにもう一度その名を呼び、力を失ったままのその手に私は頬を寄せた。この手で、あんなにも強く私を抱きしめてくれたのに。どうしてこんなことに。
「すまない。もっと早く、君を探し出すことが出来れば良かったのだが……」
苦しげにそう告げたバッシュさんの声に、私は首を振る。けれど、バッシュさんはもう一度「すまなかった」とそう言った後、さらに辛そうな声で話し始めた。
「身体に受けた傷以上に、内臓の損傷が酷かった……。出来る限りの治療は施したが、あとはノアの生命力だけが頼りだと―――」
ここへやってくる途中、バッシュさんからノアの容態について聞かされてはいたけれど、実際にこうしてノアを前にすると、その事実が何倍にも鮮明さを増して重くのしかかってくる。
バッシュさんの声を聞きながら、私はもう一度ノアの頬に触れた。目に見えなくてもわかる少しやせたその頬を感じて胸が締め付けられていく。
「、これを」
バッシュさんがそう言って、私の手をそっと取る。
「……ノアが、持っていたものだ」
手のひらに乗せられたそれに、私は息を飲んだ。それはあの夜、私がノアに手渡したペンダントだった。
―――大切なものだからこそ、君に受け取って欲しい―――
あの時のノアの言葉が蘇る。
―――ねぇ、ノア。あなたは始めからこうなることがわかっていたの?だから私にこれを託して、何も言わずに姿を消してしまったの?
「バッシュさん……」
ノアの手を両手で包み込んだまま、傍らに立つバッシュさんの名を呼ぶ。
「教えてください、ノアのことを。私はノアに助けられてばかりだったのに、ノアのことを何も知らなかった。もっとノアのこと、わかってあげられたら良かったのに……そうしたら、こんなことには―――」
ノアが何かに苦しんでいたことに気づいていたのに、私はそれをわかってあげられなかった。「大丈夫」だと告げるそのノアの言葉を鵜呑みにして、それ以上何も出来ないままだった。ノアの苦しみに寄り添うことが出来ていたら、こんなことにはならなかったのに。
「自分を責めてはいけない。決して君のせいなんかじゃない」
私の肩に手を置いて、バッシュさんはそう言った。
「でもっ……」
「すべては私のせいなんだ」
「……え?」
バッシュさんの言葉に、私は顔を上げる。そんな私の頬に残る涙を、バッシュさんはそっと拭ってくれた。
「、君に全てを話そう。ノアに起こったこれまでの事を。そして、私が犯してしまった罪の事を―――」
2012.5.5
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