L'oiseau bleu〜52〜
帝都アルケイディスにそびえ立つ皇帝宮内にあるノアの私室だった部屋。それはジャッジマスターに与えられたに相応しい豪華さを兼ね備えてはいたが、家具や私物は必要最低限のものしか置かれておらず、生活感を感じさせないばかりか、どこか物悲しい雰囲気に包まれていた。
この部屋でノアが長い間何を感じ、何を思って過ごしてきたのかを思うと酷く胸が痛む。自らの身勝手な思いだけで故郷を去った自分が今さらそんな思いを抱く資格などないと、そうわかっていても、後悔が微塵も浮かばなかったとは言い切れなかった。
ダルマスカ近郊でのあの大戦後にアルケイディアへと渡り、ジャッジマスターガブラスとしての任務を引き受けた後はその業務に忙殺される日々が続いた。急な大戦の勃発、そしてヴェインが戦死したことで起こったアルケイディア国内の混乱の沈静化。そして、かつて自分が仕えていたダルマスカとの和平調停へ向けた諸所の事案の作成。大戦で数名のジャッジマスターを失ってしまっていたため、その仕事は第9局の管轄以外のものにまで及んでいた。
そんな日々がふた月ほど過ぎた頃だった。ノアの使っていた私室へと戻り、鎧を身体から外していた時、不意に部屋の隅に置かれた書棚が目に入った。しっかりとした作りの書棚には、分厚い本が何冊も納められている。几帳面なノアらしく、ジャンルごとにその大きさもきちんと揃えて並べられていた。
それを何気なしに眺め、俺ははっとした。中途半端に身につけていた鎧を慌てて脱ぎさり、書棚へと走り寄る。上から2段目の棚に手を伸ばし、夢中で本を掻き分けた。退けられた本が足元へ何冊か落下する。それを気に留めることもなく、俺の手はあるだろう物を探し出そうと書棚の奥をさまよう。
ランディスで暮らしていた幼い頃から、ノアは大切なものを書棚の本の裏に隠す癖があった。それは手伝いをする度に父や母からもらったコインであったり、河原で拾った珍しい魔石であったりした。年頃になってからは、そこに初めてもらったラブレターを仕舞い込んでいたこともあり、それを勝手に取り出して盗み読みした俺を、真っ赤になったノアが怒鳴り散らしたこともあった。
整然と並べられた本の中、ほんのわずかにずれた背表紙を見止めた瞬間、俺はそのことを思い出したのだ。
もしあの頃のようにここに何かが隠されているのならば、そこからこの部屋で過ごしていたノアのことが少しでもわかるのではないだろうかと、そう思った。
「これは……」
そこにあったのはリボンを掛けられた箱だった。俺の手にすっぽりと収まる小さな箱。不意に、この皇帝宮に入ってすぐ、ラーサー様以外で俺の正体を知っている数少ない人物の一人、ザルガバースが話していたことを思い出した。もしかしたらこれは。それを確かめるため、ノアに申し訳ないと思いつつもそのリボンをそっと外した。もしこれが自分の思っているものだったのならば、俺にはやるべきことがある―――。
「あなたは、誰?」
目の前に現れた長い銀糸の髪を持った女性は、訝しげに俺に問いかけた。まだ20歳を過ぎたばかりにも見えるその女性。間違いでなければ、彼女がノアの―――。そして、階段を下りる姿、今俺に問いかけるその様から、俺は彼女の目が不自由であるのだということに気づいた。世話役であるらしい女性は俺を一目見るなり「旦那様」とそう口にした。「旦那様」とは、ノアのことに違いない。だが、逆に目が見えない彼女が、俺がノアではないと、そう瞬時に判断したことに驚いた。
「旦那様じゃないなんて……!だってお顔もお姿も旦那様でございますのに」
「でも、ノアじゃない」
彼女は今一度、はっきりとそう言い切った。おそらく、足音ひとつでそれを悟ったのだろう。そのことで、彼女が俺の探していた人物であるに違いないと、そう確信を持つことが出来た。
「君が、だね?」
そう問いかけると、は僅かに途惑った後、小さく頷いた。
「俺と一緒に来て欲しい」
俺の言葉には驚いたように目を見開いた。そして口を開きかけた時、世話役の女性がを守るように俺の前に立ちはだかった。
「いけません、様!見ず知らずの方についていくなど!第一、あなたは何者なのですか!いくら旦那様に瓜二つだからとはいえ、名前も名乗らずに様を連れ出そうなど!」
「マーサ……」
一気にそう俺に向かって告げた女性、マーサが俺を睨みあげる。
「すまない、確かにその通りだ」
俺はマーサに謝罪してから、二人に向かって口を開いた。
「私の名は、バッシュ。バッシュ・フォン・ローゼンバーグ」
「バッシュ―――」
名乗った俺の名を、が確かめるようにゆっくりとなぞる。
「―――ノアの、双子の兄だ」
未だ慣れない鎧の音が真っ直ぐに伸びた廊下に響く。兜の隙間からそっと後ろを窺えば、マーサに手を引かれ、強張った表情で俺の後へ続くがいた。
『ガブラスには恋人がいたはずだ。自分からは何も言わなかったがね。その相手が誰だったかも、結局聞けずじまいだった』
微かに後悔の浮かんだ憂いのある笑みを浮かべ、そう俺に告げたザルガバース。
あの日、ノアの部屋で見つけた箱の中には淡いブルーの石がついた指輪が入っていた。その指輪の内側には、『へ』という文字と共に、遠い昔ランディスで使われていた文字で綴られた言葉が刻まれていた。
「、中へ―――」
ドアを開け、を中へと促す。
「様……」
マーサの言葉に後押しされるように、胸の前で手を握り締めたままのが一歩を踏み出す。その彼女の背に手袋を外した手を添えて導いていく。
『永久の愛をここに誓う』
そう綴られた指輪は自分自身の手で渡すべきだ。そうだろう?ノア―――。
2011.4.8
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