L'oiseau bleu〜51〜
目を覚ました時、もう隣にノアの姿はなかった。あったはずのシーツの温もりさえ、もうそこには残されてはいなかった。
「ノア……!」
もう予感とは呼べない、揺るぎようのない確かな不安が私の中で湧き上がる。
「様?」
慌てて夜着をまとい部屋を飛び出した私に、マーサが驚いたように声を掛けた。
「ノアは!?ノアはどこ!?」
「旦那様なら今朝早くにお出掛けに。様は良く眠っていらっしゃるから起こさずに休ませて差し上げるようにとおっしゃって―――様?」
身体中の力が抜けたように、私はその場に座り込んだ。
もう少し眠ろう―――。そう言って私を眠りの世界へと誘ったのに、あなたはひとりでどこへ行ってしまったの?
「様、もう少し何かお口になさいませんと……」
心配そうなマーサの声に、私は緩く首を振った。
あれから2週間、まだノアは姿を見せてはくれなかった。これまでも、ノアの仕事が忙しい時はしばらく会えない日々が続いたこともあったというのに。以前ならば、1日が過ぎるごとにノアに会える日が近づいていくと思えたのに、今は逆にノアから遠ざかっていっているような気がして怖くて堪らなかった。
「様」
「ごめんなさい、本当にもう……」
「―――実は、旦那様から様にこれを渡すようにと言付かっておりました」
その言葉に俯いていた顔を上げた私の手に、マーサはそっとそれを載せた。
「これは……?」
「クリスタルです。その中に旦那様の声が収められているようです。耳に当てて念じれば、その声を聞くことができると、そう手紙には―――」
「手紙?ノアから?」
「ええ、1週間ほど前に……」
私は立ち上がって、傍に立っていたマーサの腕に触れた。
「他には?ノアはなんて書いていたの?今はどうしていると―――」
はやる気持ちを抑え切れない私に、マーサは一瞬躊躇った後に口を開いた。
「本当は1ヶ月……1ヶ月たってもご自分がここへやって来なかった時には、そのクリスタルを様に渡すようにと、そう書かれておりました」
背筋をすっと、何かが駆け下りて行ったような気がした。自分でも震え始めているのがわかる手で、小さなクリスタルをぎゅっと握り締める。
「いやよ……」
「様?」
「いやよ、聞きたくなんかないわ!戻らなかったらなんて!だって、だってそれじゃあまるで……!」
「様!」
泣き崩れた私をマーサが抱きしめる。
「もう戻らないなんて、そんなの……っ!」
昨夜見た夢が、ありありと蘇る。私の元を何も言わずに去って行くノア。どんなに名前を読んでも返ってくることのなかったノアの声。
「ノア……っ」
お願い、お願いノア。戻ってきて。もうどこにも行かないで。私には、あなたしかいないのに―――。
―――ノア?ノアでしょう?どこに行くの?……ねえ、待って!お願い!ノア!
「………っ!」
意識が戻った私の耳に届いたのは、ノアの声ではなく窓の外で飛び回っている鳥の声だった。
あれから毎晩、ノアの夢を見る。姿はわからないはずなのに、いつもノアが微笑んでいることだけはわかった。でも、微笑むだけで何も答えてはくれない。どんなにその名を呼んでも、手を伸ばしても、ノアはただ黙って歩いていってしまうだけ―――。
不安は消え去ることはなく、大きさを増していくばかりで。ただ時間だけが過ぎていく。
あれからふた月がたったけれど、私はまだあのクリスタルの声を聞くことが出来ずにいた。
ノア、今あなたはどこにいるの――――?
「旦那様!」
部屋の外から聞こえてきたマーサの声に、私は横たえていた身体を起こした。
「ノア……!?」
すぐに部屋を出て、壁伝いに足を進める。いつもは確かめながら降りていく階段がもどかしい。
「様!旦那様が!」
階段を上がってきたマーサが私の手を取って導いていく。
「ご無事でお戻りに……!」
声を詰まらせてそう言ったマーサの手を握りながら、私も震える唇を開いた。
「ノア―――!」
カツン、カツンと、一歩ずつその足音が私のほうに近づいてくる。けれど、その足音が届くたび、私の心をはっきりとした違和感が埋め尽くしていくった。沸きあがった喜びが、疑念へと変わっていく。
「様?」
そんな私の様子に気づいたマーサが、不思議そうに私に呼びかけた。
「違う―――」
「え?」
足音が止んだその方向を窺いながら、私はゆっくりと口を開いた。
「―――あなたは、誰?」
2011.3.24
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