L'oiseau bleu〜49〜



「ようございましたわね、様。旦那様とご一緒にお食事をお召し上がりになられるのは久方ぶりでしたもの」
「ええ」

自分のことのように嬉しそうにそう言ったマーサに、私は洗い終わったお皿をクロスで拭きながら頷いた。



久しぶりにゆっくりしていけそうだと、ノアが訪ねてきたのは間もなく日暮れを迎える頃だった。「それならばいつもよりも腕によりをかけなくてはいけませんね」と言ってくれたマーサと夕食の準備に取り掛かり、言葉通りいつもよりも品数の多い料理が食卓に並んだ。それは本当に久しぶりに味わう大切な時間だった。ノアと一緒にその料理を食べて、他愛もない会話をして。食事の後にはいつものようにお茶を飲んで―――。



様、あとは私が。そろそろ旦那様がお戻りになられますわ」
「ありがとう。じゃあ、あとはお願い」







部屋へ戻ると、ノアはまだバスルームから戻ってはいなかった。ノアのためにソファの傍らの照明をつけ、今朝取り替えたばかりの寝具をもう一度整える。そしてまだカーテンを引いていなかったことを思い出し、窓際へと歩み寄った。窓越しに感じる空気の冷たさが、やって来た秋を感じさせる。


「…………」


カーテンを中ほどまで引いて、私の手はそこで止まった。胸に浮かんでいた違和感が、私の手を止めたのだ。


食事が出来上がるまで、静かに本を読んでいたノア。「本当に腕を上げた」と、作った食事に言葉をくれたノア。私の淹れたお茶を、ゆっくりと味わってくれたノア。それはどれも、いつもとなんら変わりはなかったのに。それなのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。



―――」


不意に後ろから大きな腕に抱きしめられた。身体に回されたそのたくましい腕にそっと手を沿えると、指先に感じる体温は温かく、かすかに石鹸の香りがした。


「……ノア」


その香りを吸い込んで、ノアに悟られないように小さく息を吐く。感じる不安を、今口にしてもいいんだろうか。私の思い違いであればいい。けれど、たとえ尋ねたとしても以前のように「なんでもない」と、そう答えるのかもしれない―――。





しばらく続いた沈黙を破ったのはノアだった。


「君に渡したいものがある」
「……私に?」


ノアは私をソファへと導いた。そして自分も私の隣に腰を下ろすと、私の手を取り、ひんやりとした何かを手のひらに載せた。


「これは……?」


私の手のひらにちょうど収まる大きさのそれを指でなぞる。硬くて、円を描いていて……違う、丸いものじゃない。何かの紋様のようなその形。そしてそれについているのは長いチェーン。ペンダント……?


「―――俺の大切なものなんだ」
「そんな……ノアが大切にしているものなのに―――」


慌てて返そうとした私の手を、ノアが包み込む。


「だから、君に持っていて欲しい」


その言葉に私は思わず息を呑む。ノアが大切にしていたもの。それを私に託してくれるのは嬉しいことのはずなのに、今の私にはどうしてもそれを素直に喜ぶことが出来なかった。


「頼む、受け取ってくれ」


そう言って、ノアは包み込んだ私の手を強く握り締めた。その強さが、ノアの想いを表しているように思えた。胸に沸く不安を打ち消すように、私はゆっくりと息を吸い込んでから頷く。


「……わかったわ。じゃあ―――」


ほっとしたように緩んだノアの手から自分の手を外し、首元へ回す。


「これは、ノアが―――」


外したばかりのペンダントを、今度は私がノアの手に載せた。それを目にしたノアが驚いたように顔を上げたような気がした。


―――だが、これは君の……」
「私の大切なものだからこそ、私もノアに持っていて欲しいの」


私とノアをつないでくれた、母の形見のペンダント。ノアが大切にしていたものを私に託すというのなら、私も同じようにノアに託したい。


「お互いがこうして持っているのなら、なんの問題もないでしょう?」


出来る限り微笑んで、私はノアに問いかけた。―――これから先も、ずっと一緒にいられるのなら……―――口に出来なかった、最後の言葉を飲み込んで。


「―――……」


問いへの答えの代わりに、額にノアの唇が触れる。そして私が目を閉じたのと同時に、それは私の唇へと落とされた。


ノア、それは肯定だと思っていいの―――?









何度も何度もノアの口から私の名がこぼれていく。そして、まるで確かめるようにノアの手と唇が私の身体をなぞっていく。


「ノア……っ」


大きな波に溺れながらノアの名を呼べば、応えるようにさらに深い熱を与えられて、私は息を乱すことしか出来ずにいた。


「っ、………あっ」



こんなに近くに、互いの吐き出す息が触れるほどに傍にいるのに、どうして胸が締め付けられるほど苦しいの?

ノアの肌を、熱を、確かに感じるのに、ノアを遠くに感じてしまうのはなぜなの?



その不安から逃れたくて、私は必死で腕を伸ばしてノアの身体にしがみついた。



「……ノア、……っ」
「……―――」



―――――どこにも行かないで―――――



私のその願いは声になることがないまま、ノアの唇に飲み込まれていった。



2012.3.4

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