L'oiseau bleu〜44〜



「ごめんなさい、もう少し待っていてね」


そう言って、は再びキッチンの中を動き始めた。俺は読んでいた本から顔を上げ、その姿を眺める。棚に置かれた食器を取り出し、ナイフで野菜を切り、それらを盛りつけ始める。いくら使い慣れたキッチンや調理道具だとはいえ、わずかに動作が慎重に見えること以外、彼女は他の者たちとなんら変わりない動きで食事の支度をこなしていた。もしのことを知らない人間が見たら、彼女の目が不自由なのだとはにわかに信じられないかもしれない。


「最近は、ああしてなんでもご自分でなさるんですよ」


ダイニングテーブルにスープ皿を運んできたマーサが俺にそう言った。


「毎日本当にがんばっていらっしゃって」
「そうか―――」



あの墓地でエミリアと出会ってから、は自分の手でできることをもっと増やしたいと、そうマーサに告げ、毎日熱心に教えを請うようになったという。エミリアに出会い、彼女から母親たちの話を聞くことで、突然両親を亡くし失ったその空白を少しでも埋めることが出来たのだろう。それが、の気持ちをさらに前向きにさせたのかもしれない。


先ほど受け取ったシャツのボタンもがつけてくれたもの。その作業も、以前と比べれば格段に早くなっていた。


確実に、一歩一歩前に進んでいっている。それに比べ、再び同じ場所に立ち止まり、進むべき道も自分の思いさえも、どうすることもできずにいる自分。



もし、の目が見えたのなら、今の俺は彼女の瞳に一体どんなふうに映るのだろうか―――。



「お待たせ、ノア」


食事の支度を終えたが俺にそう告げて微笑みかける。その呼びかけにこたえ、俺は彼女の手をとってテーブルへと着いた。いつもとなんら変わることなく始まる食事。が手塩に掛けた料理を口に運びながら、その美味い食事とは違う苦い何かが自分の心に生まれていくのを俺は感じていた。








―――国を捨てるよりはいい。


先ほど対峙してきた男の言葉を思い返し、兜の下できつく眉根を寄せる。三月ぶりに顔を合わせたあの男はこの2年の間に随分とその風貌をさらに変えていた。だが、やはりその瞳は今も変わらないまま。そのことに苛立ちとも、驚きとも言えぬ思いが湧き上がる。


男がランディスを去った後、新たにその忠義を捧げたダルマスカは、ヴェインが執政官の座に着いた今、もう元の国の姿を取り戻すことなどありはしないというのに。それでもあの男は何を守ろうというのか。祖国であるランディスも、母でさえも守れはしなかったというのに―――。



「何の音だ?」


拳を強く握り締めた時、俺の後ろを歩いていたジャッジが不意に呟いた。足を止め、耳を澄ませば、微かでは確かに聞こえる何者かの声。それはたった今後にしてきたあの独居房からの音に違いなかった。


「侵入者か!」


ジャッジたちが元来た道を戻り始める。その後を追うべく身体を翻した直後に響き渡ったのは、強い力で叩きつけられたような金属の破壊音だった。



「囚人が逃げたぞ!!」



そう叫んだジャッジの声をきっかけに、それぞれの持ち場についていたジャッジたちが次々と集まり始め、辺りは騒がしさを増していった。男が繋がれていた場所へと戻ると、あの小さな牢はすでにそこにはなく、伸びきっていた鎖を上げさせたが、その先にあるはずの牢は無残に形をなくしていた。


「この底は遥か昔に使用していた鉄道用の地下道へと繋がっているはずです」
「―――その地下道を通り逃げ出すつもりだろう。最低限の人員を残し、至急、城塞の見張りに当たっていたジャッジたちを地下へと回せ」
「はっ!」


そう指示を出した後、地下へと続く底の見えぬ仄暗いその場所を見下ろす。その暗闇を見つめながら、俺はこれから何かが動き出していくのであろう確信にも似た予感を抱き始めていた。



2012.1.21

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