L'oiseau bleu〜42〜



柔らかな風が俺の横を通り過ぎ、の髪を優しくなびかせる。開き始めたばかりの若い草花の香りをのせたその風は、彼女と出逢ってから3度目の春が巡ってきていることを報せていた。



が跪き、静かに祈りを捧げているのはひとつの小さな墓。アルケイディス市街にあるとは思えないほど静かで穏やかな場所にある小さな教会。その裏手にある墓地に、彼女の両親は眠っていた。当初彼女の叔母たちは父親だけをこの墓に埋葬し、母親は父親とは別に共同墓地に埋葬するよう神父に告げたのだという。だが、あまりにも不憫に思った神父はこっそりと夫婦を同じ墓に埋葬した。そのことを知っているのは、この教会の神父と、そして自分だけなのだと、マーサは俺に語った。


静かに墓に向かうの柔らかな銀糸の髪が、日に日に暖かさを増していく陽の光に照らし出されるその様を、俺は彼女の数歩後ろから見つめていた。





あれから、俺はグラミス陛下の命で数度ナルビナの地下牢に投獄された男の元を訪れていた。目的は男を生かし続けているヴェインの本当の理由を探るため―――。訪れるたびに案内と称して同行するヴェインの息がかかったジャッジたちの存在は、確かに何かを企てているのだとしか思えなかったが、何度訪れようとその真意は未だ掴むことができずにいた。


そして、月日が流れても変わることがないのは、あの男も同じだった。今では以前つながれていた牢よりもさらに地下深くにある牢とさえ呼べぬような独居房に移されたというのに、あの瞳の奥に宿る光は少しも色を失うことはない。


その瞳に自分の姿を映されるたび、言いようのない感情が俺を支配していく。男に向ける憎しみの赴くまま、その存在をこの世から消してしまえたらどんなにいいだろうか―――。ナルビナの牢で初めて男と顔を合わせた時、その命を奪うことなど容易かったはずなのに、俺は結局あの顔に傷を負わせることしか出来なかった。


利用価値があるからだ―――


あの男の息の根を止めるのは、そう告げたヴェインに歯向かうことそのもの。一瞬でもそう考えてしまった自分に嫌悪感が湧き上がる。


祖国を滅ぼした憎むべき相手である帝国に、俺は心までも売り渡してしまったのか―――。




「ノア?」


不意に手のひらに触れた温かさに、はっと意識が戻る。いつの間にか祈りを終えたが、俺の手を取り心配そうな表情を浮かべていた。


「どうしたの?」


―――そしても。まるであの日何もなかったかのように、俺の傍で変わらず―――……。


「……いや、何も―――」


どんなにそう取り繕っても、声色で人の心を敏感に捉えることが出来るのことはごまかせないとはわかってはいたが、俺はそう答えるしかなかった。は僅かな曇りが浮かんだままの顔を俯かせる。


「―――ごめんなさい。最近はずっと休みも取れていないようだったのに。それなのに我侭言って連れ出してもらったりして……」
「そんなことはない。本当であればもっと―――」



そう言いかけた時、こちらに注がれる視線を感じた。この小さな墓地では他の人間と出会うことさえ珍しいというのに。不意に以前のことを思い、顔を上げるのと同時に反射的にの肩を抱き寄せた。


「……ノア?」
「―――誰だ?」


何が起こったのかわからずに不安げなを腕に閉じ込めたまま、俺は視線を向ける。その先に立ち尽くしていたのは、白髪交じりの髪を頭の後ろで束ねた一人の女だった。女の目は問いかけた俺ではなく、まっすぐにへと向けられていた。



「―――ディアナ……?」


不意に女がそう呟いた瞬間、腕の中のがはじかれたように顔を上げた。


……?」


困惑した表情のに問いかける。


「……どうして……」
「え?」


はかすかに震える唇をゆっくりと開いた。


「―――どうして、母の名を……」


女の口から発せられたのは、の母親の名前―――。そのことに俺もと同じように驚きを感じながら、ゆっくりとこちらへと近づいてくる女を見つめる。母親には身寄りが誰もいなかったと、そうは言っていた。だが―――。



「ごめんなさい、驚かせてしまったわね。私はエミリア―――。あなたのお母さんの幼馴染よ」
「お母様……の?」


俺たちの目の前までやってきた女、エミリアはそっと頷いた。そして、の目が見えないことを知っているかのように彼女の手を取り、そっと自分の顔へと触れさせた。


「……本当に、あなたはディアナにそっくりだわ、―――」


愛しげにそう口にして、エミリアは瞳に涙を浮かべて微笑んだ。


「―――ずっとずっと会いたかったわ。まさか、こんな場所であなたと、そしてディアナに会えるなんて」


そう言って、彼女は傍らの墓石を見つめた。



そしてまるでその言葉に答えるかのように、春の風に吹かれた墓に供えられた花は、ふわりと左右にそのからだを揺らした。



2011.12.30

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