L'oiseau bleu〜41〜



遥か頭上にある明かり取りとも呼べぬような小さな窓から差し込む光がかろうじて足元を照らす。石造りのナルビナ城塞の地下通路は、陽がほとんど届かないせいか空気はひんやりと冷え、じめりとした湿気に覆われていた。


静まり返ったその空間に、俺と数人のジャッジたちの重い足音だけが響く。牢部屋へと続く扉の前でこれ以上の案内は不要と告げた俺に、ジャッジはヴェインからの指示であることを伝えた。


それは明らかに俺への監視。まさかヴェインは俺があの男を牢から逃がすとでも思っているのか。自らの手で地獄へと突き落とした俺が、そんなことをするなどありえないことだというのに。第一、男を生かし続ける理由も疑わしい。オンドールの力を封じるためだとは言ってはいるが果たして……―――それともヴェインには何か別の目的があるのか―――。


その真意をつかめぬまま、両脇を牢に囲まれた薄暗い道をただ歩き続けた。






「こちらです」

鋼鉄の扉の小さなのぞき窓から中を窺うと、ひとりの男が牢の隅で壁に背を預け、顔を伏せ座り込んでいた。手足にはめられた枷は、鉄の鎖で牢の壁へとつながれている。魔石の灯りで照らし出されたその横顔は間違いなくこの手で罠にはめたはずの男。やはり生き延びていたのだという事実を思い知らされ、消えたはずの狂おしい怒りが胸に湧き上がっていく。



三重に施された鍵が開かれた音に、男はゆっくりと顔を上げた。付き従おうとしたジャッジを制し、俺はゆっくりと牢の中へ足を進めた。


「いよいよジャッジマスターのお出ましか。一体これ以上何を企んでいる」


睨みつけるような鋭い視線をこちらに投げかけながら、男は言った。


「―――無様だな。大人しく処刑されていればいいものを、生き恥をさらしているのか」


その俺の言葉に、男はこの城塞で半年前に顔を合わせた時と同じように、はっと目を見開いた。そしてゆっくりと立ち上がりながら口を開いた。


「ノア、か……?」


確かめるような、だが確信を持ったその声音に苛立ちが浮かぶのを押し殺しながら、俺は兜を外した。現れた自分と同じ顔の俺に、男は苦しげに眉を寄せた。


「俺はアルケイディア帝国公安総局第9局ジャッジマスター、ジャッジ・ガブラスだ」


冷えた空気の牢獄の中に、俺の声が響き渡る。


「ガブラス……そうか、帝国には母さんの生まれ育った家があるのだったな―――。母さんの縁者が呼び寄せてくれたのか?母さんも一緒なんだろう?母さんは今―――」
「死んだ―――」
「え……?」
「もう10年も前の話だ。母さんの身体が弱かったことを、貴様だって知っていただろう」


男はぐっと口を閉ざし、哀しみに満ちた表情を浮かべた。だが、それさえも今の俺の心を逆なでするには十分だった。握り締めた拳が怒りに震える。



「そんな母さんを見捨て!国を捨て!逃げ出した貴様に何がわかる!呼び寄せた!?ふざけるな!やつらは俺たちに救いの手を差し伸べるどころかほんの僅かの慈悲さえ見せることはなかった!そんな中で母さんがどんな思いで死んでいったかなど、貴様にはわかるまい!!」



バッシュ―――……



ベッドに横たわり天井を見上げ、悲しげに、そして愛しげに呟いたその名。


決して俺の前で口にすることはなかったが、母はいつも生き別れたこの男のことを想っていた。偶然耳にした母のその姿を、声を、俺は今も忘れることが出来ずにいた。



「己の安い誇りのために母さんを捨てた貴様を!俺は決して許さん!!」


湧き上がった憎しみがさらに首をもたげていくのを俺はもう止められなかった。カオスブレイドのひやりとした柄の感触を小手越しに感じた。



「ガブラス様―――!!」




目の前に浮かんだのは、真っ赤な鮮血と―――


ノア―――……










「ノア、おかえりなさい。食事は?まだだったらマーサに―――」



―――バッシュ!行くなよ!俺たちを置いていくなよ!


あの遠い日、俺が張り上げる声に振り返ることもなく雨の中去っていった男の後姿が蘇る。



「……ノア?どうしたの?」



―――バッシュ、バッシュ………


そしてそんな男を、声を押し殺して静かに涙を流しながら部屋の隅で見送った母―――。



「……っ!?」



―――ノア………


血にまみれた顔から俺と同じ色の瞳がのぞく。
貶められても、傷ついても、未だ変わることのないあの日と同じ意思を持ったまっすぐな瞳―――。


その瞳が、今俺に向けられているの瞳と重なる。



やめろ!そんな目で俺を見るな―――!!!






「ノア……や……っ!!」


耳に届いた悲痛な声に、俺は我に返った。そして、目に映ったその様に背筋が凍りつく。


「……レイラ……」


目の前にあったのは、服を乱し、身体を震わせるの姿だった。目尻には今にも零れ落ちそうな涙の粒が浮かんでいる。そして彷徨う瞳には恐怖と困惑の色が浮かんでいた。


俺は、俺は一体彼女に何をしようと―――……。


自分の中のやり場のない怒りや憎しみを持て余し、その苛立ちをに向けたのだ。


「っ……すまな…すまない、……っ……」


自分が守るのだと、彼女を苦しめてきたすべてのものから守るとそう誓ったこの俺が、彼女の心の奥底に潜む傷を再びえぐるようなことを―――俺自身が、この手で再びに―――………!!



「ノア……っ」


自分が犯そうとした罪に絶望を覚え、それ以上に謝罪することも、助け起こすことも出来ないまま後ずさった俺を包み込んだのは、柔らかな温もりだった。


「大丈夫……っ、私は大丈夫だからっ……だからノア……」



―――行かないで、ここにいて―――



俺に必死にすがりつき、そう何度も呟くの身体を、俺は震える手でおそるおそる抱きしめた。まだかすかに震える細い身体。その震えに思わず手を引きそうになる俺の身体を、彼女の腕は強く抱きしめ返す。


「ノア……」


自分の心の怒りを、憎しみを抑えきれないばかりか、ひどい仕打ちを犯そうとした俺を、君は許すというのか。こんなにも、愚かな俺を―――。


…………すまない、……」



腕の中の温もりを強く抱きしめながら、俺はうわ言のように何度もその名を口にし続けた。



2011.12.18

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