L'oiseau bleu〜4〜
「―――あの時は、本当にありがとう……」
は部屋に置かれたソファの背もたれに身体を支えるように手をついて俺の方を向き、小さな、だがはっきりとした言葉でそう言った。顔を合わせていないというのに、なぜ俺だと気づいたのかと驚いたが、目が見えない分、彼女は声を聞き分ける力が人より優れているのかもしれないと、そう思い当たった。彼女の両目は光を失っているせいで視線こそぼんやりと定まっていなかったが、瞳はやけに澄んでいるように見える。
「……たまたま、通りかかっただけだ」
そう答えた俺に、彼女は表情をさほど変えることもなく、ただ黙って立ち尽くしたままだった。伏せた瞼の下に、長い睫毛が影を作っている。ほのかに灯った明かりしかないほの暗い部屋に、彼女の身に付けていた真っ白な夜着がひどく不似合いに俺の目に映った。
俺は彼女から視線を外し、改めて部屋の中を見渡した。よくある娼館とは違い、あくまで民家の1室であるようなこの部屋。そして、この部屋にいるのは彼女、だけのようだった。彼女にのみ与えられたこの部屋で客を取っているのだとすれば、一介の市民など相手に出来ぬような女なのだろうか。ここへ俺を案内した女に手渡した金も、決して安いものではなかった。
どこまでもここへ来る前に抱いていた想像からはかけ離れていたが、何より違和感があるのは彼女自身だった。
その立ち姿からは、娼婦とは思えないようなどこか凛としたたたずまいと、まるで穢れを知らぬような純真ささえ感じさせられた。もしかしたら娼婦ではないのではないかと、そう思ってしまうほどに。娼婦であるならばどんなに怪しい客であろうと媚を売るものだ。だが、彼女は違う。自ら擦り寄ることもなければ、甘い言葉を囁く様子もない。
「君は……」
そう俺が口を開きかけると、じっと俺の気配を窺っていたが、小さく体を強張らせたのがわかった。その様子に気づき、俺はそれから言葉が続かなくなってしまった。これまでの経験で、明らかに自分が警戒されているのだとわかった。たとえペンダントを拾い届けた恩人であったとしても、俺は彼女にしてみれば、自分を買いにきたただの欲にまみれた男なのだ。
俺は今一度、足を踏み入れたこの部屋の重々しい扉に目をやった。そこには、本来あるはずのものがなかった。あの女が扉の向こうに消え、それを見止めた時、俺はがあの日なぜペンダントを郵便受けから受け取ったのかを知った。無用心に扉を開けることを拒んだわけではない。
―――彼女は、この扉を開けられなかったのだ。
この扉の内側には、鍵がついていなかった。鍵は外側からしか掛けることができない。つまり、外側から鍵が開けられない限り、彼女はここに閉じ込められたままなのだ。
おそらく、彼女は自ら娼婦として生きることを選んだわけでも、望んだわけでもない。何かやんごとなき理由で、この部屋で娼婦として客を取り、生きているに違いない―――。
まるで、牢獄じゃないか……。
そう苦々しく思うが、そんな自分も彼女を買いに来たひとりなのだと思い出し、舌打ちをせずにはいられなかった。
「あ、あの……」
黙ったままの俺に、が怯えたように口を開いた。身じろぎもせず、言葉も発しない俺は、目の見えない彼女にとっては不安を煽るだけに違いない。ぎゅっと胸の前で握り締められた左手が、微かに震えているように見える。
「ペンダント……」
「え……?」
その言葉に、は驚いたように顔を上げる。
「あの、ペンダント……チェーンは直したのか?」
彼女の首にあのペンダントが掛けられていないのに気づき、不意に俺はそう思った。
「……いえ、まだ……」
突然の問いに困惑したようには答えた。
「よければ、見せてくれないか?」
「直りそう、ですか……?」
戸惑いながらもあのペンダントを俺に手渡したは俺の向かいに座り、心配そうにそう尋ねた。ソファのサイドテーブルに置かれた照明をつけ、俺は手の中のチェーンに目を凝らす。
「―――ああ。鎖の一部が切れただけだ。その部分を繋げられれば大丈夫だろう……」
俺の耳に、ペンダントを届けた時と同じ、ほっとしたような彼女の溜息が届いた。やはり、これは彼女にとって大切なものなのだろう。
俺はここへ来た目的も、昼間の出来事も忘れ、細いシルバーのチェーンを指先で操ることに夢中になった。
『ホント、ノアって器用だよな』
『兄さんが不器用すぎるんだよ』
『でもその分、俺はノアが苦手なことが得意だからいいんだよ』
『たとえば?』
『喧嘩とか、モンスターの宝を盗み出すこととか。黒魔法だって得意だ』
『白魔法は、俺の方が得意だよ』
『うん、だから俺たちはそれでいいんだよ。お互いの苦手な部分を助け合うんだ。そうすりゃ、怖いものナシだろう?』
『うん、兄さん!』
俺の脳裏に、不意に懐かしい情景が蘇った。ここ最近は、全く思い出すこともなかった幼い頃の自分と、あの男。なぜ今急にそんなことを思い出してしまったのかと、微かに苛立ちが募る。
「あの……」
おずおずと掛けられた声で、俺は我に返った。目の前には、心配そうなの顔。
「あ、ああ、すまない。―――大丈夫なようだ」
ペンダントを手渡すと、彼女はその細い指先でゆっくりとチェーンをなぞった。その様を見つめながら、俺はペンダントにぶら下がるあの鳥に目が留まった。羽を広げ大空を飛んでいるようなその姿。そこで俺は、このアパートメントの前から見えた彼女の姿を思い出した。
毎日あの窓から空を見上げるその姿は、青い大空に焦がれる鳥篭に閉じ込められた鳥のようだと、そう思った。
「っ、ありがとう……ありがとうございます……!」
繋がったチェーンをたどり終えたは、そう言ってペンダントを愛おしそうに手のひらに包み込んだ。
この目での笑顔を見たのは、それが初めてだった。
2010.5.2
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