L'oiseau bleu〜34〜



生温い湿った風が吹き抜けていく。見上げた西の空は、かすかに黒い雲に覆われ始めていた。

じきにここも雨になるな―――。

そうは思ったが、俺の足は先ほどからと変わらず、ゆっくりと地面を踏みしめていた。乱雑に生える草や転がっている小石をよけながら、目的の場所へ向かって歩く。

ここへ来るのはいつぶりだろうか。と出逢ってからは一度も訪れることはなかったのだから、もう2年近くになるか……。

久方ぶりに訪れた旧市街地は、驚くほど何もかもが変わっていなかった。荒んだ街並みも、路上で何をするでもなく過ごす者たちも。たとえ何年経っても帝国そのものが変わらぬ限り、この街も変わることはないのだろう。




記憶を頼りに細い路地を幾度も曲がり、たどり着いたのは一軒の家。家というよりは小屋とこそ呼ぶに相応しいそこは、ランディスからアルケイディアに流れてすぐに母と暮らしていた場所だった。今では壁も屋根も朽ち果て、家であったのかさえ疑わしいほどのものとなっている。

この家で、差別と貧困に苦しみながら常に心にあったのは、自分たちを捨てた兄への憎悪。それはこの家から逃れることが出来てからも、消えることはなかった。

だがそれも、と出逢ったことでまるで幻だったかのように消え失せたはずだった。あの男とはもう何の関係もないのだと、心を砕く対象にさえなりえないのだと、そう思えていたはずなのに。


それなのになぜ今、俺はこんなにも心乱されているのか―――。


思いも寄らぬ場所から届いたあの男の名前。その存在があの日以来、常に俺の中にまとわり付いていた。


膝を折り、足元にあった崩れ落ちた家の木片を手に取る。何年も雨風にさらされてきたその欠片は、ほんの少し指先に力をこめただけでたやすく砕け散った。僅かに手のひらに残ったその欠片を見つめる。それはまるであの頃の俺のすべてを知っている唯一のもののように思えた。

言いようのない思いを振り払うようにその手を強く握り締めると、その最後の欠片も俺の手の中で小さく砕けた。





旧市街地からトラント区へと入る頃には、帝都の上空もすっかり真っ黒な雲に覆われていた。雨に降られる前に戻ろうと、そう思いながら俺は顔を上げた。

見上げた先にあるのは、以前が暮らしていたアパートメント。もう街は闇に包まれようとしていたが、あの部屋に明かりは灯ってはいなかった。


俺にはがいる。彼女を守り、共に生きていくことが、今の俺にとって何ものにも変えがたいことではないか―――。


心を乱すあの男の姿を振り払うようにそう改めて自分に言い聞かせ、再び足を進めようとした時だった。視界に入った人物の姿に、俺は驚いて目を見張った。

「おまえは……」

そこにいたのは、以前を連れ去ろうとしたあの男だった。

「……っ!」

驚いたのは向こうも同じだった。まさかこんなところで会うとは思っていなかったのだろう。俺の顔を見とめると、ぎくりと肩を揺らした。だが、顔を引きつらせながらも男は開き直ったように口端を上げ、下賤な笑みを浮かべた。

「これはこれは、誰かと思ったらあの時のナイト様じゃないか」

そのふざけた物言いに、隠している怒りが再びこみ上げてきそうになる。あの時のように男をねじ伏せることは簡単だが、まだ人通りもある街中で騒ぎを起こすつもりはない。何とか心を落ち着かせ、静かにその顔を睨みつけたが、男は怯むことなく話し続けた。

「どうだ?を自分だけのものにした感想は」
「……何?」
「大方、あの生活から救ってやったとでも思っているんだろう?」
「何が言いたい……!」

男の言葉の真意がわからず、思わず問い返す。

「どんなに綺麗事を並べても、あの女を金で買った時点で俺や他の男たちと同じだと言っただろう?」
「……っ、何だと!?」

その言葉に堪えていた怒りが湧き上がり、思わず男の襟元を掴み上げた。だが、男は相変わらずいやらしく顔を歪めたままにやりと笑みを浮かべた。

だってそうさ。目の見えない女がひとりでこの世の中生きていくことなんて出来るわけがない。結局は女を武器に男にすがって生きていくしかないんだよ。何人もの男を相手にしてきたのが、特定の男を相手にする生活に変わった、ただそれだけじゃないのか?」
「貴様……!!」
「そして、あんたも」

男の顔面めがけ、拳を振り下ろそうとした俺を、男の冷めた目が見つめた。

を自由にしてやった?そう思っているなら大間違いだ。それは、ただの自己満足でしかないんだよ。あんたは、結局は自分だけの囲いの中に入れておきたかっただけだ」
「違う!俺は彼女を守りたいだけだ!」

男の服を掴む手に力が篭る。だが、男はそんな俺を嘲笑うかのように淡々と続ける。

「守る?そんな正論を言って、宝物のように塔の上に鍵でもかけて大事にしまっているのか?だとすれば、あの部屋から逃れようが、なんら変わりはないじゃないか。あんたがやっていることは、をあの部屋に閉じ込めていた人間たちと同じなんだよ。」





いよいよ降り出した雨が、ぽつりと頬に落ちる。まるでそれが合図のように、雨粒は次々と降り注ぎ、街を濡らしていく。

男が立ち去った後、俺はその場で一歩も動けずにいた。男の残した言葉と共に脳裏に浮かんだのは、あの雨の夜に見かけたの横顔だった。

見まがうことなどない。あれは、何度もこの道から見上げたあの部屋で苦しんでいた頃のの表情と同じ。

それならば彼女は、今もあの時と同じ気持ちを抱いているというのか?

だが、真っ直ぐに俺に向き合い、思いを伝えてくれるが心を偽っているとは思えない。


ならば、俺は―――?


敵国に忠誠を誓い、自らの国が滅ぼされたのと同じように他国を襲い民の命を奪い積み重ねてきた罪を、以前の自分のようにこの国でもがき苦しんでいる彼女を救うことで、僅かでも許されるのだと思ったのではないのか。
彼女にならば、薄汚れた自分の姿を見られることはないのだと、そうどこか安堵していたのではないのか。
そして、結局はただ己の手の中に閉じ込めておきたかっただけではないのか。

彼女を守るためだと、そう理由をつけて自由を奪い、あの部屋に閉じ込めて―――



降り続けている雨が、俺の身体を、衣服をあっという間に湿らせていく。ずっしりと重みを増していくそれを拭うことも忘れ、俺はその雨の中ただ立ち尽くし続けた。



2011.9.4

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