L'oiseau bleu〜32〜
「降ってきちゃいましたね」
花屋の女主人は店の軒下から空を見上げてそう言った。俺も同じようにすっかり雲に覆われた空を見上げて頷く。
「傘、お貸ししましょうか?確かずいぶん前にお客さんが忘れていったのがあったはず……」
「ああ、大丈夫だ。前の通りでエアタクシーを拾っていく」
店の奥に傘を捜しに行こうとした女主人を慌てて呼び止めた。
「じゃあ気をつけてくださいね。今日の花も気に入ってくださるといいですね」
店を出ようとした俺に、女主人はそう言って微笑んだ。照れくさいようなそんな思いを抱きながらも、俺はその笑顔に応える。そして、今しがた受け取ったばかりの花束を雨から守るように上着でかばいながら、俺はタクシー乗り場へと急いだ。
エアタクシーがの暮らす部屋近くまで辿り着いた時には、雨は激しさを増していた。雨粒が地面に叩きつけられ、その飛沫が足元をかすませている。確かに今の季節は雨が多いが、こんなに強く降るのは珍しい。
エントランスで服についた雫を払い、の部屋まで上がるためエレベーターに乗り込む。手元の花束に目を落とせば、幸いにもさほど雨にも濡れておらず、その形を保ったままだった。その様子にそっと安堵する。
に花を買っていくのは2度目だ。これまでそういったことをしたことがなかったせいで、花を買うことにも贈ることにも気恥ずかしさを感じるが、日々家の中だけで過ごすの少しでもの気晴らしになればいいと、数日前に目に留まったあの花屋に入ったのだ。できる事なら以前のように自由に外を出歩くことができればいいのだが、再びあの日のようなことが起きないとも限らない。厳重なセキュリティが施されたこの地区であっても、この居住区にあの男のようなものがいないとは言い切れない間は、に不自由な思いをさせることになってしまう。
「様はご自分のお部屋に」
俺を出迎えたマーサの言葉を受け、俺はの部屋へと向かう。すれ違いざま、マーサが俺の手元の花に気づき、微笑んだのがわかった。この花もとてもいい香りなのだと、そう言ってあの花屋の女主人が見繕ってくれたこの薄桃色の花はなんという名だったか。
は、喜んでくれるだろうか―――。
はやる気持ちを抑えながら、の部屋の扉をノックする。花に落としていた目線をついと扉に向けた。いつもであればすぐに返答があるのだが、今日はそれがない。
「?」
休むにはまだ早い時間だ。もしかしたら体調でも悪いのかもしれないと、微かな不安を抱いてそっと扉を開ける。
部屋に足を踏み入れると、ともされたほのかな明かりに、先日自分が買ってきた花が優しく照らされているのが目に入った。そしてその花越しに、窓辺に佇むの姿を見つけた。
音には敏感なだが、窓に叩きつける激しい雨音でノックの音も届かなかったのだろう。体調が悪いわけではなさそうだと、ほっとしながらもう一度その名を呼ぼうとしたが、ふとのぞいた横顔にそれは声になることはなかった。
「―――っ」
彼女のその表情に、俺は息を呑んだ。呼び戻されていく記憶に、微かに体が強張っていく。
「―――ノア?」
俺の気配に気づいたがはっとしたように振り返った。
「……ノア、でしょう?」
すぐに答えることができなかった俺に、が不安げに呼びかける。
「……ああ」
やっと絞り出した声に、はほっとしたように息を吐いた。
「おかえりなさい。ごめんなさい、すぐに気づけなくて」
ソファの背もたれを伝いながら、が1歩1歩こちらへと歩み寄ってくる。いつもであれば伸ばされた腕をなんの戸惑いもなくこの手で受け止めてやることができるのに、今日は自分のその手が微かに震えているような、そんな気がした。
「……どうしたの?ノア……」
そんな変化を敏感に感じ取ったが、不安そうに俺の名を口にする。
「―――これを」
その問いには答えぬまま、ごまかすように持っていた花束をへと差し出した。
「―――わあ、いい香り」
は手にしたものが花だとわかると顔を近づけ、そっと香りを吸い込んだ。そして顔を上げて微笑む。
「ありがとう、ノア。嬉しい」
真っ直ぐにその笑顔を向けられれば、先ほど感じた疑念は俺の思い過ごしだったのではないかと、そう思えるような気がした。
そうだ、そんなはずはない。は―――。
を強く腕の中に抱きしめて、俺は自分に言い聞かせるように強くそう思った。
だが、打ち消したはずの疑念は、俺の心にいまだ微かなさざ波を立てていた。あの見覚えがあるの表情。確かに自分のこの目に、何度も映したことのあるその姿。
あれは、まだと言葉を交わすことさえなかったあの頃、あのアパートメントのあの窓から空を見上げていたあの時のの姿と同じ。物憂げに、何かを思いつめたようにただ空を見上げていた―――。
何を思っていたのかなど、俺にはわからないことだというのに、なぜ今そんな風に思ってしまうのか。そんな自分にも、言いがたい苛立ちが生まれていく。
「―――ガブラス様?」
その声にはっと意識が戻された。目の前に立つ部下のジャッジが、窺うように俺の顔を見つめていた。
「いかがなさいましたか?」
「いや、なんでもない。続けてくれ―――」
男は俺の言葉に「はい」と答えると再び口を開いた。悟られぬよう小さく息を吐いてから、手元の書類に目を落とした。
「軍に配備されている飛空挺は10機。最大のものは我が軍のカーバンクルクラスのものが1機。それよりもやや小型のものが2機。それ以外はすべて輸送専用のものばかりで戦闘の際にはさほど役に立たないかと」
ダルマスカ軍に潜入し内部調査を行ってきたジャッジの報告が続く。思ったとおり、これまで受け継がれ、守り抜かれてきた伝統ある国の歴史ゆえか、ダルマスカはさほど科学力が発達してはいないらしい。報告を聞く限りでは、万が一ナブラディアとダルマスカが手を組みアルケイディアと紛争が起こったとしても、この国が有利にことを進められることは明らかだ。だが、ロザリアが両国につけいるとなれば形勢は危ういものになるか―――。
そう考えながら、続く報告に耳を傾けて、手元の資料をめくる。
「ダルマスカ軍内は8つの部隊に分かれております。その中でも注意すべき部隊は2つ。いずれも国王の護衛を任されるほどの軍内でも精鋭が集まる部隊です。それぞれの隊を率いるのは将軍である、ウォースラ・ヨーク・アズラスとバッシュ・フォン・ローゼンバーグ―――」
その名が耳に飛び込んできたのと、書面に綴られたその文字を目で捉えたのはほぼ同時だった。まるで頭を殴られたような衝撃が俺を襲う。
「バッシュ……!?」
唸るようにそう口にした俺に、ジャッジはびくりと肩を揺らした。
「は、はいっ……!」
「間違いないのか!?」
「ま、間違いありません!た、確か……」
俺の剣幕に押されたように震える手で資料をめくり、ジャッジはその記述を読み上げた。
「ば、バッシュ・フォン・ローゼンバーグ……出身はさだかではありませんが、15年ほど前にダルマスカ軍に入隊した人物のようです。その実力で一気に将軍の座まで駆け上がったようで……。今では、実力名声ともにダルマスカを代表する軍人に―――」
「顔は……!?その男の顔は見たのか!?」
「い、いえっ、申し訳ありませんっ……配属された部隊が違っておりましたので……!」
荒々しく椅子に座りなおせば、ジャッジは怯えたようにこちらを窺っていた。だが、それに応える余裕は俺にはなかった。
ローゼンバーグという姓はランディス固有のもの。その国内でも名乗るものはそれほど多くはなかった。―――ならばダルマスカ軍のその男はやはり―――。
なぜだ。
なぜ今、俺の前に現れる―――バッシュ……!!
2011.6.28
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