L'oiseau bleu〜31〜



「いい香り―――」

水を入れ替えたばかりの花器をテーブルに置いて顔を近づける。3日前、ノアが持ってきてくれたフリージアは、手にした時と変わらぬ甘い香りを今も漂わせていた。

これまで花など買ったことがないから何がいいのかわからなかったと、どこか恥ずかしそうな声でそう言って私に渡してくれた。目で楽しむことが出来ない私のために選んでくれた、香りの深いフリージア。

そっと手を伸ばせば、しっとりとした小さな花びらが指先に触れた。



―――もっと、強くならなければ。


あの頃のことを思えば、今でもどうしようもなく苦しい。どうしていいかわからないほどの自分への嫌悪感が体中を襲う。あの部屋から逃れても、私の過去は変わることはない。どんなに嘆いても苦しんでも、それは決して消すことはできない。

それでも―――ノアはこんな私を受け止めてくれた。今の私でいいのだと、ただ静かに抱きしめてくれた。

この花とあふれるほどの想いと、諦めかけていた未来さえくれたノアに、少しでも応えたい。許されるのならば、これからずっと、ノアの傍にいたい―――。



チェストの上に置いていたオルゴールの蓋を開けば、フリージアの香りと一緒に優しい旋律が部屋へと流れ出す。まるでノアの優しさがあふれ出たようなその音色を耳にすると、胸の痛みが少しずつ薄れていくように思えた。



様、私これから夕食のお買い物に行ってまいりますね」

ノックの音の後に顔を出したマーサが私に声をかけた。

「あら、素敵な曲ですこと!」
「そうでしょう?」

オルゴールの音色に気づいたマーサのその言葉が嬉しくて、私は自分の頬が緩んだのがわかった。

「ね、マーサ。ランディスって知ってる?」
「ランディス……ですか?」
「ええ」

帝国から出た事のない私は、ランディスの名さえ知らなかった。―――この国のような技術はほとんど発達していない、自然ばかりが多い平凡な国だ―――以前、ノアがほんの少しだけそう話してくれたけれど、もっとランディスという国を知りたかった。ノアを、この曲を生んだ国のことを。

「確か、大陸の西の端の方にあった国だったかと存じますよ」
「ずっと西?アルケイディスからはだいぶ遠いのかしら」
「ええ。私の父親が昔行ったことがあったようで、まだ子どもだった頃、よくその話を聞かされましたよ。よっぽど気に入った場所だったようで、そりゃ何度も何度も」
「お父様はなんておっしゃっていたの?」

物語の続きをせがむ子どものように、私はマーサに尋ねた。

「そう確か……決して国中が都会でも裕福でもないけれど、人は皆生き生きと輝いている。街も野山も自然がいっぱいで、空がどこまでも高くて青くて―――あんなに穏やかな風はあの国にしか吹かないだろう、って」

マーサの言葉を聞きながら、私はランディスへと思いを馳せる。緑と光に満ち溢れた、ノアが生まれ育った故郷―――。

「あんなことがなければ、私も一度は行ってみたかったのですけれど」

私の手の中にあったオルゴールが、ぷつりとその旋律を止める。

「……あんなこと、って?」

「ええ」とマーサはため息混じりに口を開いた。

「ランディスは、今はもうこのイヴァリースにはない国なのです」
「―――え?」

胸の奥に、ざわりと波が立つ。しんと静まり返った部屋に、マーサの哀しげな声だけが響いた。

様はまだお小さかったからご存じないかもしれませんが―――ちょうど、20年ほど前でしょうか。アルケイディアと戦争があったのです。それで―――」





つい半時ほど前から降り出した雨は、今では街のすべての音を掻き消すほど強くなっている。テラスへと続く窓に手をあてると、大きな雨粒が窓ガラスにぶつかっているのがわかった。


『戦場だったランディス国内は、あっという間に国中が戦火に包まれたのだそうです。元から力の差は歴然だったようで、戦争事態は長引くことはなかったのですが、ランディスはその国のすべてを失い、帝国の支配下に。あれから随分経ちますが、今はどうなっているのか―――』


昼間マーサから聞いた言葉が、何度も頭の中を駆け巡っていた。

ノアの故郷ランディス。このアルケイディアからそう遠くない場所に今もある国だと、そう信じて疑わなかった。ランディスにはノアの家があって、今も家族の誰かが暮らしているのだろうと、そう思っていた。

だけど、ノアの生まれ育った家も、国さえも、もうこのイヴァリースにはない。他でもない、この国の手によってランディスは……。

じゃあノアは、どうしてこの国で暮らすことになったのだろう。なぜ、帝国軍にその身を置いているのだろう。ノアから見れば、大切な祖国を滅ぼした憎むべき国であるというのに―――。


『ランディスという、小さな国だ』


そう語ったノアの声は、懐かしさの中にもどこか寂しさを含んでいた。それはきっと、失ってしまった祖国を憂いたに違いない。それなのに、私は何もわかってあげることができなかった。ノアがどんな思いでそう口にしていたのか。何を思って今、このアルケイディアで生きているのか。そのなにひとつも―――。


額に、雨で冷やされたガラスのひやりとした温度が伝わる。

「ノア……」

口から漏れた小さなその声は、雨の音に掻き消されて静かに溶けていった。



2011.6.6

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