L'oiseau bleu〜28〜
「旦那様―――」
の寝室から階下へ下りていった俺を待っていたのは、心配そうな表情を浮かべたマーサだった。
「様は……」
「眠っている。……しばらく休めば、だいぶ落ち着くだろう」
俺の言葉にマーサはほっとため息を漏らしたが、すぐに再び顔をゆがませた。
「申し訳ございません……私が様を残して出かけたりなどしなければ……!」
そう言って両手で顔を覆ったマーサに俺は首を振る。
「あなたのせいではない」
「けれど……」
この部屋へ戻った時のの姿を思い出したのか、顔を上げたマーサの目は涙ぐんでいた。
「あんなに今夜のことを楽しみにしてらしたのに―――」
まだ拭いきれない恐怖に身体を縮ませ、俺に抱きかかえられていた。駆け寄ったマーサに大丈夫だと、そう言った声は微かに震えていた。
を連れ去ろうとしていた男は、あの部屋の客だったに違いない。彼女はあの男が誰であるのか気づいたのだ。そうでなければ、があんなにも怯えるはずはない―――
噛み締めた奥歯がぎり、と音を立てた。
「……旦那様」
「―――すべては俺のせいだ」
掛けられた声に、俺は背を向けたまま答える。ダイニングテーブルに綺麗に並べられたカトラリーが、来るはずだった穏やかな時間をただ静かにそこに留めていた。それが余計に、俺の心を締め付けた。
迂闊だった。この高層区にあの部屋の存在を知っている人間はいないだろうと思っていた。の存在を知るものはいないと―――。
「……また、今日のようなことが起こらないとは言い切れない。これからはをこの部屋から外出させないようにしてくれ。たとえ、あなたと一緒であってもだ―――」
おそらく、あの男はがこの上層区にいることに気づき、近づく機会を窺っていたのだろう。そうであるとすれば、この部屋のことも知っている可能性が高い。どんなに脅しを掛けても、またの前に姿を現さないとは限らない。
そうなる前に、この部屋も引き払わなくては……。
何度も何度も、繰り返し俺に「ごめんなさい」と言い続けた。あの謝罪が一体何に対してのものだったのか。その意味を考えながら、あの時振り払われた手のひらをじっと見つめた。
もう2度と、心を恐怖で埋め尽くすような想いを彼女にさせたくはない。
彼女の心に残る消えない傷や記憶からも、彼女の幸せを脅かすすべてのものからも、守ってやらなければ。
のすべてを、俺のこの手で―――。
2011.5.5
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