L'oiseau bleu〜26〜
開け放した窓から暖かな風が吹き込んで、私の髪を撫でていく。
朝晩はまだ肌寒いけれど、日中はこうやって窓を開けていても心地いいと感じる日が続いていた。あともう少しで春も終わり、アルケイディスにも夏がやってくる。
そして、私がこの部屋で暮らし始めて、もうすぐ1年になる。
ノアに連れられてあの部屋を出た時、私はあの生活から逃れられるという安堵と共に、この先どうなるのだろうという未来への不安で、ノアに対してどう振舞っていのかわからずにいた。けれど、初めて触れたノアの腕のたくましさと温かさにわけもなくほっとしたのを、今でも昨日のように覚えている。
それでも、こんな未来が待っているなんて、あの時の私は想像さえしていなかった。
ノアを愛し、ノアに愛され。泣きたくなるほど幸福な日々―――。
両手で包んだオルゴールから、ノアの生まれ故郷の優しいメロディが風と共に部屋の中を流れる。
『君さえいてくれればそれでいい』
―――ノア、私もあなたがいてくれればそれだけで……―――
音の止んだオルゴールを、私は黙って抱きしめた。
「すぐに戻りますからね」
「ええ、いってらっしゃい。気をつけてね」
ノアから「今日は夕食を一緒にとれそうだ」と知らせが来たのはお昼過ぎのこと。ここ最近はノアの仕事が忙しく、会えても夜もだいぶふけた頃だったり、ほんのわずかな時間だけだったりの日々が続いていたから、その知らせは私をとても喜ばせた。
「それならば、お夕食にも力を入れないといけませんね!」そう言って、マーサは張り切って食事の支度を始めた。私もマーサに教わりながら、野菜を洗ったり切り分けたりしながら、今夜訪れる楽しい時間に思いを馳せた。
そしてもうすぐ夕暮れが迫る今、マーサは以前ノアが美味しいと口にしていたビュエルバ産のワインを買うために馴染みの酒屋まで出かけている。
久しぶりに一緒に食事が出来る。そう思うと、その時が今から楽しみで仕方がない。たくさん話したいこともあるし、ノアの話も聞きたい。もしかしたら、はしゃぎすぎてノアにもマーサにも笑われてしまうかもしれない。
そんなことを考えていたら、いてもたってもいられなくなった。きっともうすぐノアがやってくる時間だろう。外で彼を出迎えて「おかえりなさい」と、少しでも早く言いたい。
はやる気持ちを抑えながら部屋を出て、ノアがやって来る通りまで続く歩きなれた坂道をゆっくりと壁伝いに下りていく。
坂道を下りきった所は小さな広場になっていて、昼間はよく子どもたちが駆け回って遊んでいる。今は、子どもたちの声の変わりに、家へと帰っていくのであろう人たちの声と足音が行き交っていた。私は時たまマーサと散歩の途中で腰掛けるそこに置かれたベンチに座った。
思わず出てきてしまったけれど、そういえばこうやってひとりで外に出たのは初めてかもしれない。きっとノアよりもマーサが戻ってくるのが早いだろう。こんなところに私がいたら、きっとひどく驚くに違いない。ひょっとしたら、叱られてしまうかも……。だけど、私のこの気持ちを伝えたら、許してくれるかしら―――。
ふと、耳に確かな足音が届いた。石畳をゆっくりと踏みしめるその音は、次第にこちらへと近づいてきている。
このベンチの後ろには石の塀しかないはず。それなのに間違いなく、その音は真っ直ぐに私へと向かってきていた。ただの通りすがりの人かもしれない。けれど、なぜか私は自分の体が強張っていくのを感じた。
マーサの足音じゃない。もっと、大きな身体の人。だけど、ノアのものでもない……。
―――誰……?
「久しぶりだな」
その声に、吸い込んだ息が喉でひゅっと音をたてたような気がした。
「ずっと探していたんだぞ。ひどいじゃないか、突然いなくなるなんて」
自分の手が震えだしたのがわかった。声を出したいのに、喉が渇ききって何も出てこない。逃げ出したいのに、まるで地面に張り付いたように足が動かない。
「だが―――」
この声は―――。この男は―――。
「……あ……っ」
ひどく強い力で掴まれた手首が熱い。もう傷なんて消えてしまったはずなのに、あの日の痛みが全身に蘇ってくる。
「やっと見つけたぞ、」
―――ノア……―――!
2011.3.6
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