L'oiseau bleu〜24〜
口の中に広がる苦味に顔をしかめながら一気にグラスの水を喉に流し込めば、それはすうっと喉を通り過ぎていった。
「だいぶ熱も下がりましたから。じきに良くなりますよ」
私の手からグラスを受け取りながら、マーサはそう言った。
「さ、そのためにももう少し安静になってくださいましね」
「……ありがとう、マーサ」
背中を支えられながら再びベッドへと横になる。ブランケットを首元まで引き上げ、マーサは優しい手つきでぽんぽん、と私の肩に触れた。
「そう思ってくださるなら、もうあんな無茶はなさらないでくださいね」
「……わかったわ……」
どこか楽しげにそう言ったマーサの言葉に、私は黙ってブランケットに潜り込むしかなかった。
風邪をひいた私がこうやってベッドで過ごすようになってもう3日になる。
3日前の朝、時間になっても出てこない私を心配したマーサが私の部屋を訪れた時、私はひどい寒気と倦怠感に襲われて起き上がることさえ出来ずにいた。けれど、すぐにお医者様を呼んでくれて、つきっきりで看病してくれたマーサのおかげで、今では少しずつだけれど食事も取れるほどに回復してきていた。
しんとした部屋に、外を走っているのであろう子どもたちの声が響いた。
さっき口にしたマーサが作ってくれたかぼちゃのスープのおかげで、じんわりと身体が温まっていく。その温かさに誘われるように、私は目を閉じた。
『』
眠りに付こうとした瞬間、不意に私の脳裏に懐かしい情景が広がった。
ふわふわと肌に触れるのは物心付いた頃から使っていたお気に入りのブランケット。その上に掛けられているのはお母様が手縫いしてくれた淡い花柄のベッドカバー。枕元に置かれているのはお父様が8歳の誕生日に買ってくれたクマのぬいぐるみ―――。
『が眠るまで、ずっと傍にいてあげるよ』
そして、ベッドの傍で私に声を掛けてくれているのは……。
『ええそうよ。私もお父様も、ずっとここにいるわ』
―――微笑んで、優しいまなざしで私を見つめるお父様とお母様。
『だから、安心してお眠りなさい―――』
そっと、何かが私の頬の上をすべる。
「……?」
ゆっくりと意識を浮上させれば、耳に届いたのは愛しい声。
「ノア……?」
「ああ」
私の頬に触れていたのはノアの指先だった。その指が頬に落ちた髪を優しくすくってから、もう一度私の頬に触れた。
「よく、眠っていた―――」
「……懐かしい、夢を見ていたの」
もう長い間、私の目は何も映すことはないのに、今でも時々鮮明な夢を見ることある。それは、ほとんどが私の目が見えていた時の記憶。同じように寝込んでしまったせいで、遠い記憶が蘇ってきてしまったのかもしれない。お父様とお母様と暮らしていた、幼い頃の幸福な夢―――。
でも……。
私は頬に触れたままのノアの手をそっと握った。
「?」
「……少しだけ、こうしていてもいい?」
ノアの手の温かさを感じながら、私は心の中で思う。
でも、私はあの頃と同じくらい……もしかしたらそれ以上に今も幸せなのかもしれない。
「熱は下がったのか?」
心配そうな声が耳に届く。
「ええ、もうだいぶ」
「風邪をひいて寝込んでいると聞いて驚いた」
「ごめんなさい、心配掛けて……。でも本当にもうすっかり良くなってきているのよ」
「―――夜、ずっと窓を開けて外を眺めていたんだって?」
その言葉に、私は自分の顔が一瞬にして赤くなったのを感じた。
「ひどい!マーサが話したのね?ノアには秘密にしてって言ったのに……!」
「君を外に連れ出したせいで風邪をひかせてしまったのではないかと落ち込んだ俺を見かねて、彼女が教えてくれたんだ」
「でも……っ」
恥ずかしくなって両手で顔を覆えば、ノアが慰めるように頭を撫でてくれた。そして優しく問う。
「どうしてそんなことしていたんだ?」
「……また、雪が降るんじゃないかと思ったの……」
私は顔を隠したまま、ぽつりぽつりと口を開いた。
「そうしたら、またあなたと一緒にあの公園に行けるかもしれないって―――」
ノアに連れられて歩いた早朝の街は楽しかった。足で雪を踏みしめる感触も、指先に感じる冷たさも、頬を撫でる空気のひんやりとした感触も。そして、初めてノアと手をつないで歩いたことも。
だからといって、毎晩雪を待ち望んで外を窺っていた自分に再び恥ずかしさがこみ上げる。
雪が降ったからといってまたそれが出来るとは限らないのに。そればかりか、すっかり身体を冷やしてしまって風邪をひいて、マーサにもノアにも心配を掛けてしまったのだから。
「まるで子どもみたいだって、呆れたでしょう……?」
おそるおそるそう尋ねれば、ふっとノアの息を吐く声が聞こえた。
「いや、そんなことはない。俺も楽しかった。子どもの頃を思い出したよ」
「……本当?」
「ああ」
ノアの両手が私の頬を包み込んだ。そして鼻先に感じる柔らかな感触。くすぐったくて肩をすくめれば、ノアが再び微笑んだような気がした。
「また行こう。今度はもっと遠くに」
「もっと遠く?」
「どこか行きたいところはないか?」
「行きたいところ……すぐには決められないわ」
「考えておいてくれ。君が行きたいところならどこへでも」
どこでもいいの。
額に落とされるノアの唇を感じながら、私はそう思う。
ノアと一緒なら、どこへ行っても何をしても、きっと嬉しい。あなたがこうして傍にいてくれるだけで、私は何よりも幸福なのだから―――。
2011.2.11
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