L'oiseau bleu〜23〜



日もすっかり暮れ、家々の明かりが道を照らす。そんな街中を行き交う者たちは、皆一様にほっとした様な表情で家路を急いでいた。その何気ない日常の風景が、俺にはひどく幸福で満ち溢れたもののように思えた。自分の帰りを待つものがいる暖かな家へ少しでも早く帰りたいと、そんな気持ちが溢れているようで―――。

だが、自分も周りから見ればその中のひとりなのだと思うと、なぜか落ち着かないような気恥ずかしいような、そんな気持ちになる。そして、そんなことを考えてしまう自分に苦笑いがこぼれた。

周りの誰一人として、まさか俺が公安総局のジャッジマスターだとは思わないだろう。けれどそれでいいと思った。ジャッジの鎧などつけないこの姿こそが、本来の俺の姿なのだから。


俺はコートの襟元をかき合わせ、冷たい風が吹き抜ける街を急いだ。





「だいぶ冷え込んでまいりましたね」

マーサが俺からコートを受け取りながら尋ねた。

「ああ。こんな寒さは珍しい」

そう答えた時、居間のドアが開きが顔を見せた。そして、俺の気配を感じ取ると、嬉しそうに微笑んだ。

「おかえりなさい、ノア」



『おかえりなさい』



はいつしかこの部屋にやってくる俺に対してそう告げるようになった。慣れぬ言葉に初めは戸惑いと照れくささを感じたが、今では自然とその言葉を受け入れられるようになった。そんな言葉を誰かと交わすのなど、一体何年ぶりだろうか。10年以上も前に母と交わして以来かもしれない。


「ただいま、

そう言って頬に軽くキスをする。その様子をマーサが微笑ましそうに眺めながら一足先に部屋へと入っていった。

「外は随分寒いのでしょう?」
「ああ、顔もすっかり凍りつきそうだ」

彼女の温かな手をとって、そっと自分の頬に触れさせる。

「本当……」

まるでその冷たさをいたわるように、彼女の滑らかな指が俺の頬をなぞっていく。その感触がひどく心地いい。

「もしかしたら、雪になるかもしれない」
「雪?」

が驚いたように顔を上げた。

「私、雪なんて子どもの時以来かもしれないわ」

そう言って、は楽しげに微笑んだ。だが、その言葉の陰に隠された現実に、微かに胸がきしむ。


ここアルケイディアにはめったに雪は降らない。降っても年に一度か二度だ。それでも降った雪はあっという間に解けてしまう。目の見えないには、その様子さえ見ることが出来なかったのだろう。ましてやあの部屋にいた頃など、外の様子を知ることなど叶わなかったのだから―――。







「冷たい!」

はおそるおそる手に取った雪に触れ、嬉しそうにそう言った。


に雪を感じさせてやりたいと、朝早く俺たちは部屋の近くにある公園までやって来た。夜半過ぎから降り続いた雪は、一晩でアルケイディスの街を白く染めていた。まだ誰も足を踏み入れてない真っ白な公園に、俺との足跡だけが刻まれていく。


はその目で雪を見ることが出来ない代わりに、手で触れてそれを感じていた。彼女の手にすくわれた雪は、徐々にその熱で形をなくし水へと返っていく。そのたびに、は何度も確かめるように雪を手に取り続けた。



「そろそろ戻ろう。これ以上は身体が冷えてしまう」

声をかければは残念そうな顔をふと見せたが、「マーサに怒られてしまうものね」と頷いた。

「手が真っ赤だ」

雪に触れ続けていた彼女の手のひらは、すっかり冷えて赤く色づいていた。俺はその手を両の手で包み込み、軽く指先に口付けた。するとはほんのりと頬を赤く染めた。

そんな反応を示した彼女に、思わず笑みがこぼれる。


こんな些細な表情が愛おしくてたまらない。そう告げたら、彼女はなんて言うのだろうか。





「ノア……ありがとう」


部屋へと戻る道すがら、そう呟いた彼女への返事の変わりに、俺は繋がれたままの手にそっと力をこめた。



2011.1.10

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