L'oiseau bleu〜19〜
「スープは右の鍋に作っておきましたから、ちゃんと召し上がってくださいね。ああ、それと―――」
「ふふ、大丈夫よ、マーサ」
朝から何度目かになるその言葉に、思わず笑ってそう答えた。
「マーサのおかげで、身の回りのことはある程度はちゃんとできるようになったもの。心配要らないわ」
1週間前、バーフォーンハイムで暮らすマーサの2番目の娘さんに子供が生まれたと知らせが届いた。マーサはこれからその娘さんと赤ちゃんに会いにいくのだ。
「もう少し、ゆっくりしてきてもいいのに」
「いいえ、こんな年寄り、かえって邪魔にされるだけですわ。それに私もあの町は3日が限界。騒がしくって、落ち着かないんですもの!」
マーサは笑ってそう言ったけれど、本当は私のことを心配してくれているのが痛いほどわかった。今日の出発でさえ、昨日の夜まで「まだ先でいい」と渋っていたくらいだ。
「明後日の夕方までには戻りますから。何かあったらすぐに連絡なさってくださいね」
最後まで心配そうにそう言って、マーサは出かけていった。
ひとりきりの部屋は、怖いほどにしんと静まり返っているように思えた。ここへ来てからは、ずっとマーサが一緒にいてくれたのだから、そう思うのは当たり前なのかもしれない。
ひとりでいることになんて、慣れてしまっていたはずなのに。
ほとんど口に出来なかったスープの入った皿を片付けながら、ぼんやりとそう思う。
私は本当に、ここにいてもいいのだろうか―――。
いつも頭に思うのは、そのことばかりだった。
『きっと旦那様も十分、様からかけがえのないものをお受け取りになっているのだと、私は思いますよ』
いつかマーサが言ってくれた言葉を思い出す。
ノアがここで少しでも心安らげる時間を過ごすことができるのなら、その手助けがこんな私にでも出来るのなら、私はここでずっと彼が訪れるのを待ち続けようと、そう思っていた。
けれど―――。
自分の気持ちに気づいてしまってから、私はそれさえも出来なくなった。
きっといつか、ノアにも大切な人が現れる。その時私は、笑顔で祝福して、心からふたりの幸せを願えるのだろうか。
そして何より、私はもう、ノアの傍にはいられなくなる―――。
この部屋で、ノアとマーサに見守られて過ごす日々は、毎日が穏やかで温かで、幸せだった。けれど私は、その幸福な時間よりも、もっとノアの傍にいたいと、そう思うようになってしまった。こんな私がそれを望むのは、許されないことだとわかっていても。
あんなに心を刻まれるような日々を過ごしてきたのに、それでもノアに触れて欲しいと思うなんて、私はなんて浅ましい女なんだろう―――。
いつも私を包んでいる真っ暗な世界よりももっと深い闇に、静かに引きずり込まれていく―――。
「!」
遠い意識の向こうで、あなたの声が聞こえた気がした。
2010.11.28
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