L'oiseau bleu〜16〜
ドリーム小説
「おやすみなさいませ、様」
「おやすみなさい、マーサ」
マーサと夜の挨拶を交わしてから寝室の扉を閉め、まっすぐに部屋の隅に置かれたチェストへと向かった。開け放してあった窓から入る少しひんやりとした風が私の髪を揺らしていく。
チェストまで辿り着き、ゆっくりと右手を伸ばす。
「―――……」
指先でガラス玉の感触を感じたけれど、私の手はそのままそこで止まってしまった。
―――今朝も数えたばかりだもの……。
しばらく来られないかもしれないとそう聞いた時、私の胸は酷く痛んだ。ノアにはこことは別にちゃんとした生活がある。仕事だってそう。わかっているのに、それが寂しいとそう思ってしまう私がいる。ノアがここを訪れない日々は、ひどくゆっくりと過ぎていくように感じられて、余計にそう思えた。
『時間が出来ればすぐに来る』
その言葉とともに彼が触れた左頬に触れる。あの時感じた温もりを思い出すように目を閉じた。
ノア、逢いたい……。
そう思った時、私の心に一滴の雫が落ちたように波紋が広がった。
……逢いたい―――?
頬に触れる指先が、微かに震えた。
どうして……?どうして「逢いたい」の?
不意に湧き上がった想いに、心がざわめいた。
『大丈夫なようだ』
『これからのことは、何も心配しなくていい』
『俺の名は、ノア。ノアだ―――』
低い、けれど優しい声が頭の中にこだまする。
―――逢いたい。もっと、声が聴きたい。
―――私、ノアのことが……―――
「あっ……」
チェストの上から引こうとした手が、ガラス球の隣にあった小箱にぶつかってしまった。その反動で、小箱がチェストから落ちる。あわててそれを拾い上げようとした時、私の手に何かが触れた。
「………!」
それは、チェーンが切れてしまったままのあのペンダントだった。頭の隅に追いやっていたあの夜の記憶がよみがえる。
「……っ!」
耳をふさいでも、あの時の男の声が聞こえてくるようだった。同時に、あの男だけではない、あの部屋にいた時の記憶が濁流のように私を襲った。
力任せに私を押し付ける男の声、身体を這う唇と手の感触と温度、身体を引き裂かれるような痛み―――。
「……っ、やだ……っ、もう……っ」
―――どんなにあの場所から逃れても、私は……―――。
窓の外を飛び交う鳥たちの声が、朝の訪れを告げている。
その声をしばらく聴いてから、眠ることが出来ぬままただ横たえていただけの身体をゆっくりとベッドから起こした。ざわめいていた心は昨夜の事など嘘の様に、今はひどく落ち着いていた。
今ならば、まだ引き返せる……
ノアが私をあの部屋から連れ出してくれたのは、あの部屋で男たちに身を捧げるしかなかった私を憐れだと、気の毒だとそう思ったから―――それ以上でも、それ以下でもない。優しいあの人は、見過ごすことが出来なかった。ただ、それだけ―――。
窓を開けた瞬間、飛び去っていった鳥たちの羽音が、哀しく胸に響いた。
2010.10.17
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