L'oiseau bleu〜15〜



目を落としていた分厚い本から顔を上げて窓越しに外を窺えば、雲ひとつない真っ青な空がそこに広がっていた。その空を2羽の鳥がじゃれあうように飛び回っている。その光景に僅かに頬を緩ませてから視線を部屋へと戻せば、先ほどから向かいのソファで真剣な表情で意識を手元に向けているがいた。


が手にしているのは、俺が先ほどまで身につけていたシャツ。ここへやって来てすぐ、マーサが取れかかっていたボタンに気づいたのだ。皇帝宮に戻ってから女官にでも頼めばいいかと、そう思った俺にマーサは、「様に付け直していただきましょう」とにこやかに言った。


ティーポットを手にした時と同様に、最初はその行為に驚きと不安がよぎったが、そんなものは無用なものだとすぐに思い直した。ゆっくりと、だが確かな動作で針を布地に通していく様は、他の者たちとなんら代わりはない。


その姿を見ながら、以前マーサが、「様は出来る限りのことをご自分でなさりたいと、そうおっしゃって随分がんばられているのですよ」と、そう言っていたことを思い出した。

俺たちには他愛もない行為でも、目の不自由な彼女にとってはそれがどれだけ大変な作業であるかは計り知れない。けれど、彼女は一歩一歩、前へ進もうとしている。あの部屋で暮らしていた頃には出来なかったことを、時間を、その手で取り戻しているかのように俺には思えた。




窓から差し込んだ午後の日差しがの長い髪を照らした。その様に、俺はあのアパートメントの最上階の窓から空を見上げていた頃のを思い出した。

自分の未来さえ見えず、ただ憂いながら空を見上げて生きていくしかなかった日々を過ごしていた。その姿を見とめるだけだった自分が、今はこうしてその彼女と過ごしている―――。




頬にかかる長い髪をそのままに作業を続けるの作業をしばし見守ってから、俺は再び手元の本のページをめくった。







「ありがとう、助かった」

ボタンを付け終えたシャツに袖を通しそう告げれば、不安げな表情でが俺に問いかけてきた。

「あの……付けた場所とか、おかしくないですか?」
「ああ、大丈夫だ。ちゃんと綺麗に付いているよ」

そう答えれば、やっとの表情が安堵のものへと変わった。

「でも、遅くなってしまってごめんなさい。時間、大丈夫ですか……?」

心配そうにが口にする。俺はやっと出来た時間の合間に、久方ぶりにの元を訪れていた。だが、それもほんの少しの時間でしかなく、再び皇帝宮に戻らなければならなかった。

「ああ、心配ない。十分間に合う」

再びほっとため息をこぼしたに、俺は静かに微笑んだ。





「じゃあ、また」
「はい」

皇帝宮に戻るため部屋を後にする俺を、がいつものように見送る。

「これから、なんだが―――」
「え?」

出掛けに口を開いた俺に、が僅かに首を傾ける。

「少し忙しくなりそうなんだ。だから、これまでのようには、ここへ来られないかもしれない」
「―――そう、ですか……」

呟くようにそう答えて目を伏せたに、微かに胸がざわめいた。そして無意識のうちに、俺は手を伸ばして彼女の頬に触れていた。その瞬間、はっとしたようにが顔を上げる。

「少し、回数が減るだけだ。時間が出来れば、すぐに来る」

は少し驚いたような顔をしてから、静かに頷いた。

「はい―――」






『すぐに来る』、思わずそう言ってしまったことに自分自身で驚いた。の悲しげな表情を見た途端、そう言わずにはいられなかったのだ。

そして、嬉しそうに頷いた彼女に対して湧き上がった言葉に出来ない想いに、俺は気づかぬ振りをしてそのまま日暮れの街を皇帝宮へと急いだ。



2010.10.10

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