L'oiseau bleu〜10〜



微かなエンジン音だけが耳に届く。小さな窓から外を窺えば、真昼の日差しに包まれたアルケイディスの街を同じように飛び交う何台ものエアタクシーの姿が目に入った。

視線を車内に戻し、あの部屋を出てから今までずっと口を閉ざしたままのに向き合った。俯いた顔も、両膝の上で握り締められた手もずっとそのまま―――。

―――無理もない。大して詳しい理由も聞かされぬままあの部屋からこうして連れ出されたのだから。


「これからのことは……」

俺が口を開くと、の手がぴくりと動いた。

「……何も心配しなくてもいい。これから君が暮らす部屋を用意してある。新しい暮らしに慣れるまでには時間がかかるだろうが、身の回りの世話をする者も手配してある」



を救い出したいと、そう思った俺は、彼女の身請けを申し出ようと考えた。だが、彼女は普通の街の娼婦とは違う。彼女をあの部屋に閉じ込め、甘い汁をすすり続けている彼女の叔父たちが彼女を簡単に手放すことは考えられない。おそらく法外な金額を要求されるだろう。だが、それに応え金を支払ったとしても、それですっぱりと縁が切れるとも思えなかった。きっとあらゆる手を使って付きまとってくるに違いない。―――金の無心にやって来た俺の伯母のように……。

考えあぐねていた俺の頭に浮かんだのは、情報屋の言葉だった。


『あの夫婦、同業者や屋敷の周りからの評判がすこぶる悪いようだからねぇ』



再び情報屋から得た話を調べ進めれば、あの夫婦から出てきたのは予想通りのものだった。違法取引、密売、財産の虚偽申請、不法入国者の斡旋……当局が手を出すには、充分すぎる証拠ばかりだった。




「あの……」

その声に顔を上げれば、がこちらに顔を向けていた。その表情には、僅かな不安と確かな困惑の色が浮かんでいた。

「どうした……?」
「あの……どうし―――」
「お客様、到着いたしました」

の言葉に、到着を告げる運転手の男の声が重なった。短く返事をしてからを見やったが、彼女は再び視線を落としていた。

「……

俺の呼びかけにはゆっくりと顔を上げた。

「―――手を」
「えっ……」
「タクシーを降りる。俺の腕に掴まるといい」

少しの間の後、静かに立ち上がっておそるおそるといった様子で伸ばされたその手を、俺は右手でそっと掴んだ。触れた瞬間、びくりと彼女の身体が震えたことには気づかないふりをして、そのままその手を俺の左腕へと導いた。

「段差がある。ゆっくりでいい」
「―――はい……」

彼女の足元を気遣いながら、ゆっくりとタクシーを降りる。

降り立った先は、アルケイディスでも政民のみが住む高層地区。人々は皆上質な衣類を纏い、どこか勝ち誇ったような表情で行き交う。眼下には新民たちが暮らす中層地区が広がり、ここが特別な場所なのだと言うことを実感させられる。


用意した部屋はこの地区にある。皇帝宮の一角に住まう俺の元に連れて行くわけにもいかず、皇帝宮からそう遠くないこの地区に、彼女のための部屋を用意した。



部屋までの道を歩きながら、左腕に頼りないけれど確かな温かさを感じ、そういえば彼女に触れたのは初めてだと、そう思った。あの部屋で顔を合わせていた時には、まさかこうやって彼女と歩くことになろうとは、想像さえしていなかった。


『どうして私を』


おそらく先ほどはそう問いかけたかったのだろう。だが、そう問われたとしても俺にはうまく答えてやることは出来なかったかもしれない。


だが、あの部屋に閉じ込められ、傷ついたを見た時、彼女をここから解放してやりたいと、そう強く思ったのだ。

それはきっと、羽を奪われもがき苦しんでいる彼女の姿に、この地へたどり着いてからずっと自分の心を殺し、偽りながら生きてきた自分自身の姿が重なったからなのかもしれない。

隣を歩く、俺よりも頭ひとつ分以上背の低い彼女の表情を窺うことはできなかったが、これからの暮らしが少しでも彼女に安らぎをもたらしてくれることを、望まずにはいられなかった。





「大体のものは揃えたつもりだが……。他に必要なものがあったら言ってくれ」

新しい部屋にたどり着き、その手で置かれているものをゆっくりと確かめているの背中にそう告げると、は手を止め、「あの―――」と、俺の方に身体を向けた。開きかけた口からはその後に続く言葉が紡がれることはなかった。何かをためらっているように見えた。だが俺は、ただじっと彼女の言葉を待った。



「……あの、あなたの名前を……」
「え?」
「あ……ごめんなさい……。私、まだあなたの名前を聞いていなかったから―――」


ああ、そうだったかと、そう言われて気づいた。俺はマライから聞いて彼女の名を知っていたが、俺たちはあの部屋で互いのことを話したことなどなかったのだから、俺の名などわからなくて当然だ。


「……俺は、ガブラ―――」

そこまで口にして、俺は言葉を止めた。自分でも理解できない感情が俺をそうさせたのだ。一旦口を閉じ、真っ直ぐにを見つめてから、もう一度俺は口を開いた。

「俺の名は……ノア。―――ノアだ」


母を亡くしてから、ほとんど口にすることも呼ばれることもなかったその名を、なぜ今彼女に名乗ってしまったのかは、自分でもわからなかった。



2010.7.15

back  /  next