L'oiseau bleu〜1〜



間もなく日暮れを迎える街灯もないこの街は、静かに闇に包まれようとしていた。

手入れされる事もない雑草があちこちに生い茂り、所々欠けた道とも言えない様な石畳を歩く。周りに立ち並ぶ家々は扉が外れかけていたり、屋根が朽ちかけていたりと、まるで廃墟のようにも見えるが、ここにも確かに多くの暮らしがある。この生活から這い上がろうともがく者もいれば、全てを諦めただ日々を過ごす者もいる街。

ふと視線を感じて目を向けると、ヒュムの子どもがこちらをじっと見つめていた。手足はやせ細り、皮膚に浮かび上がった骨と筋が目に付いた。着ている服もつぎはぎだらけで、明らかに『ここ』で生きている子どもであることをうかがわせる。だが、その瞳だけはやけに鋭く俺を睨みつけていた。自分の持っている中で、最も質素な服を身に付けているのだが、俺が『ここ』の人間ではないことを見透かしているような瞳。それはまるで、全ての敵意を俺に向けているかのようだった―――。



旧市街地と帝都の中心部をつなぐ長いゲートを歩きながら、先ほどの子どもの事を思った。あれは、ほんの10数年前の俺の姿そのものだった。国を失い、それでも何とか生き延びるために病に臥せっていた母と共に、ここアルケイディスに移り住んだあの頃の俺の―――。


必死に這いつくばって生き長らえ、今ではアルケイディスでも上層部と呼ばれる場所で生きる身となったが、それでもあの頃の事は決して忘れることが出来ない。むしろ、忘れることがない様、こうして時間を作っては当時暮らしたあの街を訪れるようにしているのだ。

外民であるということで受けた差別と屈辱、8年前に報われぬままこの世を去った母の事を忘れないために。……そして、俺たちを捨てた双子の兄への憎しみをさらに心に刻むために。





橋を渡り終えトラント区へと入った時には、もう陽が沈みかけていた。旧市街地では決して見ることの出来ない高くそびえ立つ無数の建物は夕陽で赤く染められている。その中のひとつ、おそらくアパートメントであろう建物を見上げると、いつものと同じ光景がそこにはあった。

最上階の最も奥の部屋、すでに闇にのまれようとしているその部屋の窓辺からわずかに顔をのぞかせる女。銀糸の髪をかすかに風に揺らし、どこを見るでもなくただぼんやりと空を見上げている。

いつの頃からか、旧市街地を訪れ皇帝宮に戻る道すがらいつもその姿が目に入るようになった。あの女に異性として興味がわいているわけではなかったが、なぜかあの憂いを帯びた表情が気になった。この辺りでも割と高価な方であろう部屋に暮らし、見る限りでは上等な衣服を身に付け、なんの不自由もなく生きているように思われた。それなのにおそらく毎日、ああやって窓から空を見上げているのだ。それはまるで、今にもあの窓から飛び立とうとしているようにも、あるいはそれを諦めているようにも俺には見えた。



その日も、彼女がいつものように日暮れと共に窓を硬く閉ざそうと窓に手をかけた瞬間、そこからきらりと光る何かがゆっくりと下降していくのが目に入った。それ、は俺から数メートル前のレンガ敷きの道に音もなく降り立った。条件反射のように、俺は思わずそこまで足を進めてそれを拾い上げる。手にしたそれは、シルバーでかたどられた小さな鳥のモチーフがついたペンダントだった。その鳥は大きく羽を広げまさに飛んでいるような姿をしていた。おそらく窓を閉める際に手を引っ掛けてしまったのだろう、細いチェーンが途中からぷつりと切れている。

あの部屋を見上げると、彼女は俺の姿には気付いていないらしく、窓辺に設けられたプランターを手でさするようにして何かを探していた。探しているのはこのペンダントに違いない。声をかければこちらに気がつくだろうとは思ったが、ここで声を張り上げるのも躊躇われ、俺はしばし迷った後、そのアパートメントの中へと足を踏み入れた。



アパートメントの中は想像よりもだいぶ質素な創りだった。等間隔に並ぶドアもよけいな装飾は施されてはおらず、年代を感じさせる重厚感だけが漂っていた。微かにきしむ階段を最上階である5階まで上り、あの女の部屋を目指した。

目的の部屋の前に立ち、3度そのドアをノックする。が、中からは物音ひとつしない。部屋を間違えてしまったのではとも思ったが、最上階は他の階よりも極端に部屋数が少なく、通りに面した部屋は奥の部屋を含めて2つしかないようだから、間違っているはずはない。僅かに苛立ちながら、今度は先ほどより強く2度ドアを叩いた。すると、微かに中で人の動く気配を感じた。

「……はい……」

返ってきた声はようやく聞き取れるくらいの小さな声で、それはどこか怯えているようにも聞こえた。その声に一瞬躊躇ったが声の主はおそらく彼女だろうと思われ、気を取り直して口を開いた。

「失礼。今、この前の通りでペンダントを拾ったのだが、あなたのものではないかと」
「えっ……?」
「鳥の飾りのついたものです」
「っ、私のものです……!」

表情こそ見えなかったがひどく嬉しそうな声が聞こえ、心の中でほっと溜息をついた。早くこれを渡して皇帝宮に戻らなくては。そう思い、目の前のドアが開かれるのを待つ。しかし、部屋のドアは開かれなかった。訝しく思い再び声をかけようとした時、先ほどのように小さな彼女の声が聞こえた。

「あの、すみません……郵便受けから入れていただけませんか?」
「は?」

視線を下に落とすと、ドアの中央より僅かに下にブロンズの小さな郵便受けがあった。

「……ここから?」

俺の不審な想いを感じ取ったのか、すまなそうに彼女は「はい」と応えた。


どこの誰ともわからぬ男に顔を合わせるつもりはない、ということか―――。


彼女の指定した郵便受けからペンダントを入れるため、俺はそれを小さくまとめ、郵便受けからそっと中へと落とした。少しの間の後、ペンダントを手にしたのであろう女の安心したような声が聞こえた。

「っ、ありがとうございます……!」


姿は見えずとも、扉の向こうの彼女があのペンダントを手に微笑んでいるような気がした。



2010.3.29

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