伸ばした手は、届かずに堕ちる




「兄上!」

父である皇帝への謁見を終え執務室へ戻る途中、呼びかけられた声に振り返ると、まだ幼い弟が無邪気な笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってきた。

「どちらかへお出かけだったのですか?」
「ああ、父上にお会いしてきたところだ」
「そうですか!僕は先生の授業が終わったので、先生をお見送りにいくところなんです」

その言葉に顔を上げると、ラーサーの後ろからやって来たの姿が目に入った。鮮やかなブルーの服が、彼女の白い肌を際立たせている。私と目が合うと、はゆっくりと頭を垂れ、いつものように静かに微笑んだ。は2年前からまだ幼いラーサーに読み書きなどを教える家庭教師としてここを訪れていた。

さん、ラーサーはどうですか。ご迷惑をおかけしていないでしょうか」

そう問いかけると、は「いいえ、まったく」と笑みを増した顔で答えた。

「ラーサー様はとても優秀でいらっしゃるし、とてもお優しい方です。私の方がかえってご迷惑をおかけしているのではないかと心配しているくらいです」
「そ、そんなことは……!」

の言葉に恥ずかしそうに頬を染めて口を開きかけたラーサーだったが、彼を呼ぶ声にそれはさえぎられた。声の主はラーサー付の女官だった。

「お話中申し訳ございません。ラーサー様、デルタ様がおいでなのですが……」
「ええっ?デルタ先生の授業まではまだ時間があるはずですよね?」

慌てるラーサーに、私は声をかける。

「デルタ先生はだいぶ熱心でいらっしゃるからな。ラーサー、あまり待たせるものではないよ」

ラーサーは渋々といった様子で私とに挨拶をすると、呼びに来た女官と共に自室へと戻っていった。ラーサーの後姿を見つめたまま、私は口を開いた。

「―――ご結婚、されるそうですね」

その言葉にが微かに身を震わせたのがわかった。そして幾分かの空白の後、「はい」と返された声に、私は静かに目を閉じた。



が嫁ぐことになったと知らせてくれたのは、ラーサーだった。相手はアルケイディスでも有数の名家の跡継ぎ。申し分のない相手だった。

目を輝かせて興奮したように私にそれを伝える弟の顔は、満面の嬉しさの中にもどこか寂しさも覗かせていた。2年もの間共に時間を過ごしてきたは、ラーサーにとっては姉、もしくは早くに亡くした母代わりのような存在だったのだ。嫁いでしまえば彼女はもう、ここへやって来ることはなくなるのだから仕方のないことだろう。

「でも、先生が幸せになるのが一番嬉しいです」

つい最近6歳の誕生日を迎えたばかりだというのに、寂しさをぐっと堪えてそう言って微笑んだラーサーに、私は「そうだな」と声をかけてやることしか出来ず、微かに感じた胸の奥の痛みにも気づかないふりをした。






「ヴェイン様、やはり元老院の一部に不穏な動きがあるようです」
「そうか……」

ジャッジ・ゲノの報告を聞きながら、私は最後の書類にペンを走らせる。サインを終え書類を脇へと押しやると、そのタイミングを待っていたようにゲノが再び口を開いた。

「いかがいたしましょうか」
「―――放っておけ」
「は?」
「所詮やつらのすることなど高が知れている。泳がせて、尻尾を出したところで叩き潰せばいい」

私の返答が不満だったのか、ゲノは「しかし」と声を上げたが、私の考えが揺らぐことはないことを悟ると、それ以上言葉を続けることはなかった。

私の存在が元老院にとって邪魔な存在であることはとうの昔から明らかだった。彼らは私を引き摺り落とそうと、日々躍起になっている。一体どんな手を使ってくる気でいるのかはわからないが、私にはそれはどうでもいいことのように思えた。



ジャッジ・ゲノが退出した後、私は立ち上がり執務室の窓から眼下を見下ろした。そこにあるのは皇帝宮のちょうど中央に設えられた庭園。色とりどりの花が咲き誇り穏やかなそこは、鎧姿のジャッジたちが行き交う皇帝宮において異質な場所だった。

その空間に唯一違和感なく染まることが出来る人物であるだろうラーサーとが、ちょうど置かれているベンチに隣り合って座っているのが見えた。おそらく、が手元の本を読むのをラーサーが嬉しそうに聞いているのだろう。その表情が容易に想像でき、思わず口元が緩んだ。


その時不意にが本から視線を外し、ゆっくりと顔を上げた。おそらく、彼女からも私の姿は見えているだろう。その視線は、真っ直ぐにこちらをとらえていた。だが、いつもであれば浮かべる穏やかな笑顔はそこにはなかった。その瞳は、これまで見せたことがない深い悲しみに染められていた。そして私もただ、その瞳をいつまでも見つめることしか出来なかった。





それから1ヵ月後、が皇帝宮を訪れる最後の日がやってきた。

最後の授業を終えたラーサーは、やはり寂しさを隠し切れずにひどく肩を落としていた。

「ラーサー様」

はそんなラーサーの元へ歩み寄ると膝をつき、ラーサーと目線を合わせて語りかけた。

「ラーサー様はこの2年で本当に立派になられました。私の想像よりもずっと遥かに……。あなたのおかげで、本当に楽しい日々を過ごせました。その日々を……ラーサー様の優しさを、私は決して忘れることはないでしょう。どうか、これからもそのお優しい御心でグラミス皇帝やヴェイン様と共に、アルケイディアの平和をお守りください―――」
「っ、はいっ……」

ついに涙を堪えきれなくなったラーサーを抱きしめたの目も、涙で潤んでいた。その様子を傍らで見ながら、ラーサーが人前で泣く姿を見たのは初めてだということに気がついた。どんなに大人びているように見えても、ラーサーはまだほんの小さな子どもなのだ。

はラーサーの背をゆっくりと幾度か撫でた後、静かに立ち上がり私に向き合った。その瞬間、微かに見えたあの日と同じ瞳の色にいたたまれない気持ちが湧き上がったが、私はそれを貼り付けた笑顔の奥に隠した。

「ヴェイン様、本当にお世話になりました」
「こちらこそラーサーのこと、大層気にかけていただきありがとうございます。ラーサーもあなたのおかげで有意義で、そして幸福な時を過ごせたことでしょう。―――心からの感謝と、あなたのこれからの幸せを祈ります」
「……ありがとうございます。―――どうか、ヴェイン様も……」

顔を上げ、そう言い掛けたの瞳が大きく見開かれた。その異変に気づいた瞬間、耳に届いたのは後方で控えていたジャッジ・ゲノの私の名を呼ぶ声だった。

「ヴェイン様!!!」





ふわりと、鼻先をかすめたのはの細くしなやかなブロンドの髪だった。それと同時に、彼女の体もまるでスローモーションのように倒れこんでいく。


ジャッジたちの怒号と、女官たちの悲鳴が辺りを駆け巡る。


足元には、音もなく崩れ落ちた

目の前で起きたことが信じられず、おそるおそる伸ばした手は、彼女へと触れることは叶わなかった。


「ヴェイン様!!まだ刺客がおるやも知れません!早くこちらへ!!」


ゲノは呆然とする私をなかば引き摺るように、その場から遠ざけていった。


何も言葉に出来ぬまま、強張る首を何とか動かし振り返ると、数人のジャッジに取り押さえられる一人の男と、女官に抱きしめられながら声の限り泣き叫ぶラーサー、そして次第に広がっていく血の海に沈むの姿が見えた。



彼女の最後の力を振り絞るように開かれた瞳が、私に向けられる。そして、私の姿をその目で捉えると、レイラはいつものように柔らかな微笑を浮かべた。




それを見とめた瞬間、身体中に怒りとも哀しみとも表せない感情が渦巻いた。




なぜあなたが、その美しい体から血を流さなくてはいけないのだ。

なぜあなたが、私のこの身を貫くべきものであった禍々しい剣を、その身に突き立てられなければいけないのだ。



―――なぜ、あなたは今、そんなにも幸福そうな顔で逝こうとしているのだ―――




そんなあなたをこの腕に抱くことさえ出来なかった私を、どうか哀れな男だと蔑んでくれ―――




2010.5.21

title from 『涕涙ステラ』