君が笑ってくれるまで



私の生まれた家は誰から見ても『名家』と呼ばれる家で。そんな家に生まれてしまった自分は、きっと普通に恋をして結婚するなんてことは出来ないのだろうなとそう悟ったのは、数えるほどしか顔を合わせていない人と神父様の前で永遠を誓っている歳の離れた姉を見た12歳の時だった。



けれどまさか、自分の結婚相手がこの国の次期皇帝候補だなんて、神様だって予想しなかったに違いない。





食器とスプーンがぶつかるかすかな音だけが鳴り響く広すぎる部屋。目の前には見るからに美味しそうなスープ。けれどあまりその味を感じられないのは私の舌がおかしいせいなのだろうか。それでもなんとか飲み込んでスプーンを置けば、絶妙のタイミングでその皿が下げられ、新たな料理が運ばれてくる。目の前に現れた色鮮やかな食材に小さくため息をついて、私はまたそれを静かに口に入れた。



このアルケイディス帝国の次期皇帝候補との呼び声が高いヴェイン・カルダス・ソリドールが私の夫となったのは3ヶ月前のこと。婚約をしていたとはいえ、10年前の姉と同様に式の当日まで私が彼と顔を合わせたのは片手で足りる回数。おまけに会ったとは言っても、結婚式や今後の公式行事の打ち合わせ、皇帝陛下への謁見など事務的な機会ばかりで、ほとんど2人で過ごしたり話したりすることはなかった。


そしてそれは、夫婦となってからもさほど変わらない。


朝は食事をとらないのだというヴェインは早々に執務へと出かける。そして夜もこの皇帝宮内の私室に戻ってくるのは深夜。そのため近頃では滅多に顔を合わせることもなく、夕食もこうやってひとりで食べることがほとんどだった。




しんと静まり返った部屋のベッドの上で、眠れずに何度も寝返りをうつ。程よい硬さと肌触りのいい上質な寝具が心地よく感じるけれど、私の気持ちはどんよりと曇ったままだ。


その時、寝室のドアの向こうから、カチャリと音が聞こえた。あれは、ヴェインが帰ってきた音。

私とヴェインの寝室は隣り合った場所にある。2つの部屋を直接つなぐ扉はあるけれど、その扉が開かれたことはこれまで1度もない。


誰もがうらやむ聡明で眉目秀麗な次期皇帝候補の妻の座。けれど実際私はただのお飾りの人形でしかない。夫婦としての営みはもちろん、会話だってほとんどない。絵に描いたような政略結婚で結ばれた私たちには、ありきたりな幸福など訪れないのだろうか。

それでも―――。


『君の事は―――……』


もうずっと前に一度だけ聴いた言葉が、やっと眠りに引き込まれていく私の耳にそっとこだました。





「おはようございます、様」

着替えを済ませダイニングへ行くと、いつも身の回りの世話をしてくれているメイドが私に声をかけた。

「おはよう」

それに応えて引かれた椅子に座れば、広いテーブルの中央に置かれた花器に目が留まった。

「この花……」

いつもならば色とりどりの豪華な花が飾られているけれど、今日は小さな花びらが幾重にも重なったブルーの花がささやかに、けれど愛らしくテーブルを彩っていた。

「ヴェイン様が選ばれたんです」

私のつぶやきに気づいたメイドが微笑んで私に告げた。

「……彼が?」
「はい。この花を取り寄せるようにと私どもにおっしゃられまして―――」


この花は、私が一番好きな花だった。けれど、この時期はアルケイディス近辺には咲かないはず。それをわざわざヴェインが?


「ヴェイン様はいつも様のことをお気に掛けていらっしゃるのですよ」
「え?」
「執務からお戻りになられると、今日の様の様子はどうだったかと毎日皆に聞いていらっしゃって。お元気がないようですと申し上げましたら、この花を用意するようにと。―――様のお好きな花だからと」

「私が言ったということは内緒にしてくださいね」と彼女は笑った。


ヴェインが、私のために?



『君の事は私が守ろう』



式をあげる前にほんの数分だけ2人きりになった時に彼が私に告げた言葉。あの時は、自分のおかれた立場を見極めるだけで精一杯で、その言葉に耳を傾ける余裕などなかった。


抗うことなど出来なかった婚姻に、心を頑なにしていたのは私の方だった。そんな私の心をほぐそうと、ヴェインが心を配ってくれていたことにも気づかず、私はただ自分のことだけを憂いていただけ。彼はずっと、私のことを守ろうとしてくれていたのに―――。


目に映る花のブルーが、彼の姿に重なって見えた。






扉をゆっくりと開けば、ヴェインは僅かに驚いた顔をした。それでも、静かに私へと穏やかな声で問いかける。

「どうした?」
「―――あの……」

こんな風にヴェインに向き合うのは初めてで、自分がひどく緊張しているのがわかった。

「あの花、ありがとう。すごく嬉しかった……」

そう言えば、ヴェインは微かに口元をほころばせて「そうか」と呟いた。

「それから、お願いがあるの―――」

ぎゅっとドレスを握りしめ、私は意を決して口を開いた。

「……明日から、朝食は一緒にとらない?ヴェインも少しは口にしたほうがいいと思うし……それにもう少し、あなたと話がしたいなって―――」

私の言葉に、ヴェインは驚いたように目を見開いた。けれどすぐに、ふっと表情を崩した。初めて見るヴェインのその表情に、私の胸が微かに高鳴る。

「わかった。そうしよう」




幼い頃から夢見ていたような、そんな出逢いでも始まりでもなかったけれど、それでも私たちはこれからゆっくりと進んでいければいい。
そうしていつか、きっとこの今日という始まりの日を懐かしく思い出す日が来るだろう。

それをあなたの隣で思う日が来るのは、きっとそんなに遠い未来じゃないかもしれない。



2011.1.30

title from 『恋したくなるお題』