Secret garden




「そのように走られると危険です」


目の前をいく背中にそう声を掛けるが、当の本人は「大丈夫!」とまるでこちらの忠告になど耳を貸すつもりはないらしい。


「だって時間がないのでしょう?だったら少しでも急がなくちゃ!」


こちらを振り返ることもせず、声の主はスカートの裾を僅かにたくし上げて足を進めている。その背中を、小さく諦めを含んだため息をこぼして追う。



『気をつけて』―――。そう言いながらもどこか楽しげに俺たちを見送ったドレイスの顔が脳裏に浮かんだ。さてはあいつは、こうなることを見越していたのではないだろうか。






どうしても行きたいところがある、と様が言い出したのは昨日のことだった。では陛下にも許しを請い、警備のものたちの手配もしなければならないので数日後に、と告げた俺に様は、そんなに待つことはできないし、大勢の者を引き連れていきたくはないのだと頬を膨らませたのだ。


一人娘にはめっぽう甘い陛下の許しをなんなく勝ち取り、最低限の護衛のものだけを連れ立ってやって来たのはアルケイディス南方のはずれに位置するソリドール家の私有地。緑が青々と茂る緑地と木々の中に、やや古びた小さな邸宅がぽつんと建てられていた。

だが様は、主が不在の間屋敷の管理を任されている近くに住む老夫婦に挨拶を済ませると、その邸宅へ立ち寄ることなく駆け出したのだ。

敷地の入り口に飛空挺と共に待たせている兵士二人だけではいささか不安が残る。いくら万全のセキュリティをしいているソリドール家の所有地とはいえ安心は出来ない。むしろ、そうであるからこそ起こりうる危険があるのだというのに。





「もう少しよ」


相変わらず前に視線を向けたまま、様はそう俺に告げた。


一体何があるというのか―――


彼女の背中を追い、人一人がやっと通れる木々の隙間を潜り抜けていく。しばらく進み、ちょうど俺の顔の前を遮る木の枝を左腕でよけたその先に現れたのは、一面に開けた花畑だった。まるで森の中にぽっかりと穴が開いたかのようなそこには、何種類もの色とりどりの花々が競うように咲き誇り、風に揺れていた。おそらく人の手ははいっていないのだろう。けれど、だからこそ作られる無造作な美しさがそこにはあった。


「これは……」
「ね、綺麗でしょう?」


様はやっと俺に顔を向けて、どこか誇らしげにそう言った。


「お気に入りの場所なの。あんまり他の人には知られたくなくて。―――だけど、ガブラスは特別」


その様の言葉に、胸が高鳴った。自分の発する一言がいつもどれほど俺の心を揺さぶっているのか、おそらくこの方は知らないだろう。だがそれを奥底に隠したまま、再び歩き始めた様の後を追った。




「この辺でいいかな」


花畑の中ほどにたどり着くと、様は躊躇いもなくそこに広がる草の上に腰を下ろし、あろうことか寝転んでしまった。


様!そのような場所に横になられては……!」
「あら、平気よ。汚れが目立たないようにちゃんとこの服で来たんだもの」


紺色のスカートを指先でつまみ、「ね?」と視線を向ける様に返す言葉も無くなった俺に、彼女はさらりと言い退けた。


そのような意味ではないというのに―――


だが、そう思ったところでどうなるわけでもないことは、この方と過ごしてきた2年の間ですでに学んでしまっていた。


「ほら、ガブラスもここどうぞ?」


寝転んだまま、ご自分の隣を手のひらで叩きながらかけられた言葉に渋々その場所に腰を下ろせば、満足そうに微笑まれたような気配がした。





「前はね、よくここに来ていたの。母がまだ生きていた頃」


しばしの沈黙の後、ぽつりと様が呟いた。


「父も兄たちも忙しかったから、母と、まだ赤ちゃんだったラーサーと来ることが多かったけれど」


その声には、懐かしさと共に寂しさが滲んでいる。


「ここは、秘密の場所なの。母と見つけた―――」
「……よろしかったのですか?そのような場所に私が立ち入って―――」


視線を向けてそう尋ねれば、様は僅かに目を見開いてから微笑んだ。


「言ったでしょう?あなたは特別だって」
「……私は……―――っ!!」


不意に腕をぐいと引かれた。普段であれば、その程度の力に動じることなどありはしないのだが、気を抜いていたと認めざるを得ないこの状況ではその力に導かれるまま、身体はそのまま後ろへと倒れこんでしまった。

すぐ目の前に現れた様の横顔に、自分の顔に血が上がるのがわかった。


「見て、ガブラス」


そんな俺の気持ちになど気づくはずもなく、様は上を見上げたまま口を開いた。


「なんだか、空に包まれているような気がしない?」


平穏を装いながら、ゆっくりと同じ方向に視線を向ければ、そこにはどこまでも青く広がる空があった。


「こうしていると、嫌なことも全部吹き飛んですごく穏やかな気持ちになれるの」


大きく息を吸って、様はゆっくりと目を閉じた。その長いまつげが白い肌に影を作る。


「ガブラスもやってみて?」


もうどうにでもなれと、同じように目を閉じれば、聞こえてくるのは遠くでさえずる鳥の声の声だけだった。


「ね、気持ちいいでしょう?」
「……ええ」
「ふふ、良かった。ガブラスも、たまには気を抜かないと顔が強張ったまま固まっちゃうわよ?」


満足そうなその声に、ぎこちなく笑みを返すしかない。


もしかしたら、様はそのために―――?


己の都合のいい解釈に自嘲しながら、そのまま身体を地面に預けた。こんな風にただ何もなしに外の風にあたるのは、もしかしたら故郷で過ごしていた幼い頃以来かもしれない。吹き抜けていく風と差し込む温かな陽の光に、懐かしさと次第に抜けていく全身の力を感じながら、徐々に意識はまどろんでいった。





そのまま眠り込んでしまった自分の髪に幾本かの花が飾り立てられていることに気づくのは、楽しそうな様の笑い声に目を覚ましたしばし後のこと。  





2013.4.25