ひそやかな祈り




「あと5分だ」
「かしこまりました」

部屋の入り口に立つ男が事務的に告げた言葉に頷き、私は最後の仕上げに入った。

私がこの部屋の担当(とは言っても3日に1度の掃除だけ)になってから半年、定められた時間内の作業に同行する護衛という名の監視役を務めるジャッジは数回おきに変わるけれど、この部屋は些細な変化もない。初めて訪れた時と同じ、冷たい場所のまま―。置かれているのは、本当に最低限のものだけ。家具もランプも全て高級品なのだろうけれど、それが余計に生活感を消し去っているようだった。

アルケイディア帝国公安総局第9局のジャッジマスター、ジャッジ・ガブラス。それがこの部屋の主。外民の出ながら、ジャッジマスターに上り詰めるほどの実力者。私の仕事は主が不在の時に行うので、直接会ったこともなければ、姿を見かけたことさえない。

ジャッジ・ガブラスはどんな人なんだろう。やっぱりこの部屋のように、冷たい人なのかしら。
 
そんなことを考えながら、毎回掃除をする必要などないんじゃないかと思ってしまうほど整えられた部屋での仕事を終え、兜と鎧をつけたままの男に終わりを告げて部屋を後にした。






部屋の主であるジャッジ・ガブラスの姿を初めて見たのは、それから数日後の事だった。

本来の担当が不在であったために、第13局のジャッジマスターの昼食をお持ちするという大役を任された私は、無事任務を終えほっとしながら普段は通ることのない石造りの渡り廊下を歩いていた。ジャッジたちが執務を行うこちらの棟に来ることは滅多にないことだから、必要以上に緊張してしまった。

渡り廊下からふと隣に面した中庭に視線を移す。そこは、簡素ではあるけれど、何種類かの花が植えられ、小さな噴水まで設けられていて、この建物には不似合いなほど穏やかな場所だった。

と、どこからか規則正しい金属音が聞こえてきた。耳慣れたジャッジたちの鎧の音じゃなく、もっと重厚な力強い音に思わず足を止めていると、私のいる場所とは反対側の方からその音の主が中庭へと現われた。

ジャッジ・ガブラス……。

猛牛の角を模した兜を身に着けていると聞いたことがあったので、それがあの部屋の主だとすぐにわかった。ジャッジマスターのシンボルである黒く長いマントをなびかせた彼は、私に気付くこともなく、その中庭の中央へと歩みを進めた。そして、しばし立ち止まった後、ゆっくりとその雄々しい兜を外した。

短く切りそろえられた金髪に、固く結ばれた薄い唇。そして、険しいブルーグレイの瞳。初めて見る彼の姿は、あの部屋のままのように思えた。

他人を寄せつけることがない、冷静で厳しい人……。

ジャッジ・ガブラスはしばし目の前で咲き誇る花をただじっと見つめていたけれど、次の瞬間、ほんの少しだけ、その表情が緩んだように私には見えた。もう一度、その表情を確かめたかったのだけれど、彼の事を呼びにやって来たジャッジの声に、彼の顔は元の厳しい顔に戻っていた。




本当は、ジャッジ・ガブラスは冷たい人などではないのかもしれない。

私はそう思うようになった。本当に見逃してしまいそうなほど僅かな時間だったけれど、不意に見せたあの柔らかい表情が、本当の姿じゃないんだろうか。けれど、それを心のずっと奥に隠し持っているような気がする。険しく見えたあの瞳は、私には、同じくらい酷く哀しげに見えた。




それから、私はジャッジ・ガブラスの部屋に入った時、最後に必ず少しの花を窓辺に飾ることにした。どうしても、あの哀しげな瞳を忘れることが出来なかったから。もちろん、花を飾るだけでどうにかできるとは思っていない。ただ、ほんの一瞬でも、彼の心を和らげることが出来ればいいと、それだけを思った。

最初は付き添いのジャッジに咎められたけれど、ジャッジ・ガブラス本人から下げるように言われたら従うと約束をして、なんとか許可をもらった。それから数日たつけれど、ジャッジ・ガブラスからは、なんの指示もない。もしかしたら、目にさえ入っていないのかもしれない。だけど、私はそれを止める事はしなかった。



いつものようにジャッジ・ガブラスの部屋の掃除を終え、最後に窓辺に花を飾った時だった。入り口に立っていたジャッジが酷く焦ったように声を出した。

「も、申し訳ありません!間もなく作業を終えますゆえ……!」
「構わん。部屋に入ることは事前に聞いていた。用事が出来たので、立ち寄っただけだ」

声と共に姿を現したのは、鎧に身を包んだジャッジ・ガブラスだった。思いがけない部屋の主の登場に、私も身を固くしてしまった。早く立ち去ろうと思っても、緊張からか足が思うように動かない。

そんな私の姿に気付いたのか、ジャッジ・ガブラスは兜の下から視線をこちらに向けた。

「……その花は、君がやっていたのか?」

私の背後にある花瓶の事を言っているのだと気付き、私は慌てて頭を下げた。

「は、はいっ。出過ぎた真似をして申し訳ございません!お気に召さなければ、すぐにお下げいたします……!」

僅かな沈黙の後、ジャッジ・ガブラスは口を開いた。

「名前は?」
「あっ、この花は……」
「違う」
「え?」
「君の名前だ」

予想外の言葉に私はあっけにとられた後、頭を下げたまま「、と申します」と恐る恐る答えた。けれど、ジャッジ・ガブラスはそれを聞いても何も言うこともなく、書斎の机の引き出しから書類を取ると、再び部屋の外へと向かった。頭を下げたままそれを見送る私の横を通り過ぎようとした時だった。

「ありがとう。これからも頼む、

低く小さな声だったけれど、確かに彼はそう言った。私が驚いて顔を上げた時には、もうそこに彼の姿はなかった。





そして、私はこの部屋に花を飾ることを相変わらず続けている。あれ以来、ジャッジ・ガブラスに会うことはないけれど、彼がこの花を見ていてくれているのだと思うと、言葉に出来ないほど嬉しくて、飾る花を選ぶことがより楽しくなった。



花に手をかけて、今日も心の中で思う。


どうか、少しでもあなたの哀しみが癒されますように―――。      


2010.1.15

title from 『Traum Raum』