あなたの幸福だけを願う




「どうぞ」

聞こえてきた柔らかな声を確認し、ゆっくりとその扉を開ける。

「失礼します」

ノックをする前に頭から外した兜を左腕に抱え部屋の中に入ると、ちょうど2人の侍女が様と共に忙しなく駆け回っているところだった。

「明日のご予定についてご連絡に参ったのですが」
「うん、もう少しで終わるからそこに座って待っていてくれる?」

様はそう言って、部屋に置かれた豪華なソファを指差したが、俺は座ることはせず、立ったまま、彼女たちの動きを見守った。





「ありがとう。もう下がっていいわ」

あらかた準備が整った後に様がそう言うと、侍女たちは様と、立ち尽くしたままの俺に順に礼をして部屋を出て行った。

「もう、座っててって言ったのに」

くすりと様は笑ってから、ゆっくりとご自分の部屋を見回した。その動きに合わせて、艶やかな黒髪がさらりと肩を滑る。そしてその細く長い指で慈しむように、今までお使いになられていた家具たちをなぞった。

「婚礼って、もっと厳かで静かなものだと思っていたわ。だけど案外最後までバタバタしているものなのね」


様は、明日このソリドール家から嫁がれる。嫁ぎ先は、ロザリア帝国のマルガラス家。このアルケイディア帝国のいわば敵国への輿入れは、表面上はこれから先の平穏と友好の証と言うことにはなっているが、実際はそうではない。ロザリアからしてみれば、皇帝の第一皇女を迎え入れるということは、人質を手にしたのも同然と思うだろう。だが、それは同時に油断を生み出す。ヴェインはそれが狙いなのだ。血の繋がった妹君でさえ、駒のように扱う、どこまでも冷酷な男。

「ガブラス」

苦々しい俺の表情から何かを感じ取ったのか、様が俺の名を呼んだ。

「大丈夫。私は、大丈夫だから」

そう言った様の表情には、憂いの中にも確かな決意が秘められていた。

様は、この婚礼の本当の意味をわかっている。だが、それでも抗うことなく、静かに受け入れ、身を投じようとしている。もし今後、この2国の間で争いが始まった時、ご自分の身が危ういものになってしまうのだとしても―――。


ジャッジマスターにまで上り詰めてからも、外民出の俺へ向けられる数々の視線には、確かな憐れみと侮辱が混じっていた。だが、そんな中でも、様はひとりの人間として真っ直ぐに俺と向かい合ってくれた。いつもまぶしいほどの笑顔を向けて、その優しい声で俺の名を呼んでくれた。

このアルケイディスで苦汁を味わいながら必死に生きてきた俺の、唯一の希望だった。そして――――。


「では、明日ご婚礼が行われるブルオミシェイスまでは私とジャッジ・ドレイスがご同行いたします。警備体制は万全ですので、ご安心ください」

複雑な思いを抱えながらそう告げて、俺はいたたまれず部屋を後にしようとした。だが、そんな俺の腕を、様がご自分の手を添えて制した。布越しだというのに、彼女の温もりがしっかりと肌に伝わってくる。そのぬくもりに胸をざわつかせているのを悟られぬよう、静かに振り返った。

様、何かご心配でも……」

様は静かに首を振った。

「ガブラス。あなたには、今までいっぱい迷惑かけたわね。ちゃんと、お礼を言いたくて……」
「……いえ、そのようなことはございません。むしろ、私のほうが様に多くのお気遣いを頂き、心から感謝しています」

俺の言葉に様は再び首を振ると、目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。

「ねえ、ガブラス。……最後にひとつだけ、私の我が侭を聞いてくれる?」
「……私に出来ることであれば何なりと」

俺の腕に添えられたままの様の指先に、微かに力が篭った。そして、ゆっくりとその美しい顔を俺に向けた。

「お願い。最後に、一度だけ抱きしめて」

その言葉に、俺は一瞬息をすることを忘れた。口を開こうと思うのに声が出ない。それを拒絶ととったのか、様は縋るような声でもう一度言った。

「お願い……一度だけでいいから……」

やはり言葉は出なかったが、様の指先が微かに震えているのを見とめた瞬間、俺はその華奢な身体を腕の中に引き込んでいた。俺の腕からこぼれ落ちた兜が放った金属音が、別の世界の出来事のようだった。

鎧を身に纏ったままのこの身体では痛みを与えてしまうだろうとわかっているのに、背中に回された腕の力に答えるように、立場も何もかも忘れ、俺はただ強く彼女を抱きしめた。


「ずっと、あなたが好きだった―――」


耳元で苦しげに囁かれたその言葉に身体中に歓喜の想いが駆け巡ったが、それと同時にこの想いに未来がないことを思い知らされ、胸を締め付けるような苦しみに蝕まれた。

自分も同じ気持ちだったと伝えられたらどんなにいいだろう。全てを捨てて、共に逃げようと言えたら、どんなに幸せだろう。だが、様は国のために覚悟を決められたのだ。そして、俺はその決心を打ち崩すことも、消し去ることも出来ない。

腕の中の温もりを感じながら、俺は自分の弱さと愚かさを呪った。






翌日、婚儀が行われるブルオミシェイスの神殿に入られる前、様は俺とドレイスに向かい合った。婚儀に出席できるのは親族のみ、俺たちはここで様と別れなければならない。

「ドレイス、ラーサーのことお願いします」
「はっ。確かに。この命に代えてでも、お守りいたします」

ドレイスも、この婚礼を良しとしない一人であったが、様の決意を知ってからは、そのことについて口を開くことはなかった。

「ガブラス」

真っ白な婚礼衣装を身に付けた様が、真っ直ぐに俺を見つめた。その顔は、何かを吹っ切ったように凛とした強さをたたえており、それがより一層、彼女の美しさを引き立たせているようだった。この期に及んでも、その姿に惹かれずにはいられない自分が憎らしい。

「今まで、本当にありがとう。……どうか、幸せに」
「はい。様も、どうか……」

『お幸せに』とは言えなかった。

そんな俺に、様はいつものように優しい微笑を浮かべると、神官に導かれながら、確かな足取りで神殿へと歩みを進めた。

 

俺はその後姿に、昨日伝えることができなかった、声にならない想いを告げた。



あなたを愛しています。これからも、永遠に、あなただけを―――



2010.1.15

title from 『Traum Raum』