優しい歌
午後の穏やかな日差しが差し込むテラスを進む。
吹き抜けていく風がひどく心地いい。
「やあ、こんにちは」
途中、白い服に身を包んだ見知った顔に出会い、挨拶を交わす。
「こんにちは。今日もいいお天気ですね」
「ああ、本当に」
「そういえば、先ほど中庭へ行かれるのをお見かけしましたよ。だからきっと今はそちらに」
「そうか、ありがとう」
俺は彼女に礼を言ってから、中庭の方へと足を向けた。
しばらくテラスを進むと、木々や色とりどりの花々に囲まれた中庭へと辿り着く。
木々の隙間から光が差し込む生い茂る緑の中、敷き詰められたレンガを辿っていけば、
そのちょうど中ほどで佇む見知った背中を見つけた。
「ノア」
呼びかけると、俺と同じ顔がゆっくりとこちらを振り返った。
「―――バッシュ」
俺は軽く手を挙げてそれに応える。
「また来たのか。近頃の帝国はよほど暇を持て余しているらしいな」
その皮肉に思わず笑みがこぼれる。そんな俺を見て、ノアも口元を僅かに緩めた。
「どうだ、脚の方は。最近はだいぶ歩くのも支障がなくなったそうじゃないか」
先ほど会ってきたノアの主治医から聞いた話を口にすれば、ノアは「ああ」と頷いた。
「だが、まだ長時間は無理だ。相変わらずこいつの世話になっている」
そう言って、ノアは自分が座っている車椅子を手で叩いた。
あのヴェインとの最期の闘いの後、倒れたノア。
大灯台で負った傷もそのままにヴェインとの死闘に望んだノアは、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
ラーサー様の指示で至急行われたその後の処置により一命こそ取り留めたが、
身体に受けた傷はそう容易に完治できるものではなかった。
引き続き十分な治療と静養が必要であったが、ノアが不在の間、代わりにジャッジ・ガブラスを務めることとなった俺の存在があるため、
帝国内でそのまま治療を続けることは難しかった。
だが、事情を知る数少ない人物の一人であるビュエルバのオンドール候の協力もあり、
彼の遠縁だという口添えで、プルヴァマ内の島のひとつにある侯爵の管理するこの病院で、ノアは治療を続けることとなった。
「そうは言っても、考えられないほどの回復力だと医者が言っていた。この分だと、あと数ヶ月もしないで退院できるのではないかと」
ノアの前に跪いてそう口にすると、彼はしばしの沈黙の後、静かに口を開いた。
「このまま、おまえがジャッジマスターを続けた方がいいのではないか―――」
「ノア」
「俺はおそらく、もう以前のようには剣を振るえん」
そう言ってノアはじっと自分の手のひらを見つめた。
日常生活に支障はないほどに回復はしたが、その右手の握力は格段に失われていることは医者にも聞いていた。
ノアはそれを、身をもって感じている。
長い間、騎士としての象徴であったその剣を失うのはいかほどのものか。
そんなノアの胸中を思うと、自分のこと以上に胸が痛んだ。
「剣を振るうことばかりが、ジャッジマスターの職務ではないだろう」
「だが……」
「主君を支えることも、ジャッジマスターに課せられた重要な任務ではないのか?」
ノアの右手に自分の手を重ねる。
「この先、ラーサー様をお守りするのは俺の役目ではない」
その言葉に、ノアの目がかすかに揺れたのがわかった。
「ラーサー様は、ずっとおまえを待っている」
俺の手の中のもうひとつの手が、出来得る限りの力で握り締められたのがわかった。
その自分と同じブルーグレイの瞳の中に浮かんだまだ小さいが確かな決意を感じ取り、俺は立ち上がってすぐ傍のベンチへと腰掛けた。
「それに、もうあんな堅苦しい鎧はこりごりだ。よくおまえはあんな鎧で過ごせていたな」
苦笑いを浮かべてそう言えば、ノアも同じような笑みをこぼした。
だが、すぐに真剣な表情に戻ると、俺をじっと見据えた。
「そうなったらバッシュ、おまえはどうするつもりだ」
戻る国も仕える主君も失った俺にそう問いかけるノアは、苦しげに顔を歪ませた。
「俺が―――」
「その話はもう終わったのだと、そう前にも言っただろう?」
ノアを追い詰め、そうさせてしまったのは他でもないこの俺だ。
ノアひとりが苦しみ続けるべきことではないのだというのに、ノアはいまだにその苦しみを負っていた。
どこまでも心優しい、俺の弟―――。
「おまえは十分に罪を償った。すべきことは、これからのイヴァリースを生きることだ。おまえも、そしてこの俺も―――」
「バッシュ……」
まだ僅かに哀しみが浮かぶその顔から視線を外し、真っ青に晴れ渡った空を見上げる。
どこよりも空に近いせいか、ここから眺める空は普段目にするものよりも青が濃い。
「ランディスに、帰ろうかと思っている」
そう言うと、ノアは驚いたように息を呑んだ。
「おまえが、あの家を守ってくれていたのだろう?」
ラーサー様の計らいで命ぜられた、今は帝国領となってしまったかつて祖国があった場所での任務。
そこで俺は信じられないものを目にした。
それは、かつて自分たちが暮らしていた頃と寸分違わぬ屋敷の姿。
もうとっくに朽ち果てているのだろうと思っていたその屋敷は、20年前と変わらずに私を迎えてくれた。
それは明らかに、人の手によって守られ続けてきたもの。
「まさか、ラーサー様に知られていたとはな」
ノアが自嘲気味にため息をついた。
「よく出来た主ではないか」
「そうだな」
俺たちは小さく笑いあう。
「―――ノア」
俺は再びノアの前に歩み出る。そしてまっすぐにノアを見つめた。
「これから、俺も共にあの家を守っていく許可をくれないか」
幸福だった、忘れられない多くの思い出が詰まった祖国の家。
自らそれを捨てた自分にそんな資格はないのだと、勝手な願いだとそうわかっていても、俺はこの手で再び守りたかった。
父や母、そしてノアのために―――。
「許可も何も―――」
ノアも俺と同じように真っ直ぐに俺を見て告げる。
「あの家は、おまえの家でもあるじゃないか」
そう口にして、照れくさそうに微笑むその顔は、幼い頃そのままの弟の顔だった。
「バッシュ、頼みがある」
「なんだ?」
ノアを乗せた車椅子を押しながら、続く言葉に耳を傾ける。
「あの家の庭に、母さんが好きだった花を植えてくれないか」
ノアは周りに咲き誇る花を見つめながらそう言った。
俺たち双子を溢れるほどの愛情で育ててくれた母は、花が好きな人だった。
ノアとともにその花の間を駆け回り、母に大目玉を食らったこともあった。
そんな俺たちを、笑いながらその温かなまなざしで見守ってくれていた優しい父。
あの庭には、俺たち家族のかけがえのない思い出が詰まっている。
きっとノアはこの中庭を訪れるたび、あの家の庭を思っていたのだろう。
「ああ、もちろんだ」
ノアの肩にそっと置いた俺の手に、ノアの手が重ねられる。
「ありがとう、兄さん―――」
俺たちの頬を撫でていく風に乗って、あの日あの庭で母が歌っていた優しい歌がそっと届いたような気がした。
2011.8.3