堕ちた空
身体を覆っている防具は泥がこびりつき、所々破れかかった服は先ほどから降り続いている雨を吸って、まるで鉛を背負っているように全身が重かった。
ゆっくりと周りを見渡せば、そこにあるのは無数の塊。目を凝らしてやっと、それが人だと、つい数時間前まで人であったものだということがわかる。敵国の鎧も中には見受けられるが、そのほとんどはこれまで共に戦ってきた仲間たちだった―――。
「もうっ!また1人であの森に行ったのね?あの森は強いモンスターが出るから危ないって言われてるじゃない!」
「だってしょうがないじゃないか。ノアは母さんから用事を頼まれていたし。それに、剣の腕を磨くにはあの森が一番なんだ」
剣の鍛錬のためにたまに出かける山の向こうの森から戻った俺を待ち受けていたのは、ひどく機嫌の悪いだった。は俺たちの家の近所に住む1つ下の幼馴染みで、物心ついた時からいつも一緒だった。
「またそんなこと言って……怪我でもしたらどうするの?」
「大丈夫だよ。そんなヘマはしないさ」
笑いながら俺がそう言うと、一旦口を開きかけたは何も言わず、不機嫌そうな顔をしたまま背を向けて歩いていった。
「……なんだよ、あいつ」
小さくなっていくの後姿を見送りながらそう呟けば、ノアがちょうど小屋から薪を抱えて出てきた。
「なぁ、ノア。あいつ、母さんよりも口うるさいと思わないか?」
「心配してたんだよ、。兄さんが森へ行ったって聞いてから、ずっと待ってた」
「心配なんて―――。もう、俺たちは子どもじゃない。半人前かもしれないけれど、誇り高きランディス騎士団の一員だ」
ノアの腕から薪を半分手に取りそう言えば、ノアは「そうだけど」と続けた。
「は、兄さんのことが好きなんだよ」
そうノアに言われ、俺は思わず薪を落としそうになった。心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。けれどそれをノアに悟られないように、なるべく平静を装って振り返った。するとノアが、俺と同じ顔で、でも今は全く正反対の穏やかな顔でこちらを見つめていた。
「な、なんだよそれ」
「その通りの意味だよ。それに、兄さんだってのことが好きなんだろう?」
小さい頃からいつも傍にいた。妹みたいだった彼女がいつしか自分にとって特別な存在になっていたことには、自分でも薄々気づいていた。俺とノアの後を一緒になって走り回っていたお転婆だったが、次第に女らしく成長していく様子は、なんだか遠くへいってしまうような寂しい気にも、どこかくすぐったいような気にもさせた。
おれたちといる時間が以前よりも少なくなり、女同士でいることが多くなればひどく寂しかったし、他の男と話しているのを見かけるだけで心の奥で密かに嫉妬していた。それがたとえノアであっても。
困らせたいわけでも、心配を掛けたいわけでもない。にはこれからも、ずっと隣で笑っていて欲しい。その笑顔を守るために、俺は早く一人前の男になりたいと思っているんだ。
「バッシュ!ノア!」
「!?」
与えられたばかりの騎士団の鎧に身を包み家を出た俺たちの前に、息を切らせてが駆け寄ってきた。
「2人とも行ってしまうの?―――無茶だわ……帝国相手に戦うなんて……」
涙を浮かべたに、俺もノアも胸が痛んだ。
「……そうかもしれない。だけど、ランディスは俺たちが守ってみせる」
「そうだよ、。俺も兄さんも、この国を守るためにこれまで剣の腕を磨いてきたんだ」
「だけど……」
それでも不安げな表情を見せるに、俺もノアも明るく笑って見せた。
「大丈夫。必ず戻ってくるよ」
「本当?」
「ああ。ね、兄さん」
ノアはそう言うと、俺の肩をぽんと叩いて「先に行ってるよ」と歩き出した。ノアの心遣いを察し、俺は勇気を出して、まだ少し不安の色を覗かせているに向き合った。
「」
俺の呼びかけに、は伏せていた目をゆっくりと上げた。その大きな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「戻ってきたら、いちばんに言いたいことがあるんだ」
「……言いたいこと?」
「ああ」
俺は手を伸ばし、白く柔らかなの頬にそっと触れた。
「だから、それまで……」
しばらく俺の顔をじっと見つめていたは、静かに頷いた。
「うん、待ってる―――」
雨の音に混じって耳に届いた轟音に顔を上げれば、そこには空を埋め尽くすほどの飛空艇の姿があった。
「兄さん……!!」
「―――ノア……」
声を張り上げ駆け寄ってきたノアは俺と同じように体中泥だらけではあったが、大きな怪我を負ってはいないようで、心の中で安堵の溜息をついた。
「……帝国の艦隊……」
ノアもまた空を見上げ、ぽつりとそう呟いた。
帝国との力の差は歴然だった。軍事力、科学力、どちらをとっても元々戦争からは遠いところにいた小国ランディスが敵うはずはなかった。侵略からわずか1ヶ月足らずで、俺たちの祖国は帝国に敗れた。国王の宮殿がある市の中心部は破壊され見る影もなく、それと同時に多くの命も失われた。
それでも、俺はこの手で守りたかった。生まれたこの国を、町を、森を、大切な人々を。けれどこのままでは全てが帝国に埋め尽くされ、俺たちは帝国の支配の下、大事なものを失った苦しみを味わいながら、屈辱の中で生きていかなくてはならなくなるだろう。3年前、幼い頃からの憧れだった国王直属の騎士団に入団した時に誓った誇りも踏みにじられ、同じ志を持った仲間たちの死をも塗りつぶされて―――。
「バッシュ!!なんでだよ!!」
背後から、ノアの叫び声が俺に投げかけられた。
「なんでここを出る必要があるんだ!!」
俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。その先にたち尽くすノアの顔には、怒りとも哀しみとも取れる表情が浮かんでいた。
「……俺は、ランディスを滅ぼした帝国の元でなんか生きたくはない。騎士団の誇りまで傷つけられるのは真っ平だ」
「母さんの具合が良くないのは、バッシュだってわかっているだろう?そんな母さんを、バッシュは置いていくのか……?」
「じゃあ、おまえがいればいい」
俺の言葉に、ノアは目を見開いた。開きかけていた口元は、微かに震えている。
3年前、父が病で急死してから女手ひとつで俺たちを育て上げた母は去年から体調を崩し、ここ数ヶ月はベッドで過ごすことが多くなっていた。出来ることなら母とノアと共にランディスを出たい。けれど、病に伏せる母に行くあてのない旅をさせるわけにはいかなかった。
ノアが俺なんかよりも何倍も優しい男だということをわかっているから、俺はそれにつけこんでノアに母を託そうとしている。ひどい兄だと、自分でもそう自覚していたが、己の誇りを失うことの方が、今の俺には耐えられなかった。
「は……はどうするんだ」
ぎゅっと拳を握り締めたノアが、睨むように俺を見据えてそう言った。
「のことも、捨てていくのか?」
黙っていた俺にさらにそう言い捨てたノアに、俺は何も言うことは出来なかった。
「……バッシュ……」
瓦礫を乗り越えながら町の外れまで来た時、弱々しい声が俺を呼び止めた。
「……」
と顔を合わせるのは、帝国との戦いに旅立ったあの日以来だった。
「―――ここを、出て行くの?」
そう言ったに、俺はただ「ああ」と頷くことしかできなかった。
「私も、一緒に行きたい……!」
「……」
縋るようにそう言って俺を見つめるを、この腕に抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、そうはできなかった。先の見えない俺の我が侭に、を付き合わせるわけにはいかない。
「―――ごめん」
搾り出すようにそう告げた瞬間、の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「どうして?……どうして一緒に行っちゃいけないの?私は、バッシュとずっと一緒にいたいのに……!私、待っていたのよ?バッシュが帰ってくるの……ずっと……」
泣きながらそう言うの姿に、胸が締め付けられた。母を、ノアを残し、さらに俺はをも置き去りにしようとしている。俺の選択は間違いではないのかと、微かに揺らぎかけた思いの中に浮かんだのは、あの雨の中血を流し、息絶えていた仲間たちの姿と、雲に覆われた真っ暗な空だった。
「もう、待たなくていい。俺のことはもう―――」
振り切るようにそう言って走り出した先に広がった空は、色をなくしたように見えた。
2010.4.24