甘い呪文




「……将軍!ローゼンバーグ将軍ってば!」

遠くの方から聞こえてきた呼び声と足音が次第に近づいてくるのを感じ、足を止め振り返ると、大きく手を振りながらこちらに駆けてくるの姿が目に入った。緩く纏められた彼女の亜麻色の髪が夕陽のオレンジ色に照らされ、より一層艶やかに見えた。

「もうっ、将軍ってば何度呼んでも気付いてくれないんだもの!」

は私の前まで来ると、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返しながらそう言った。よほど走ってきたのだろう。額にはうっすらと汗がにじんでいる。

「ああ、すまない。まだ、その名に呼ばれ慣れていなくてね」

私がその名で呼ばれるようになって1ヶ月。まだ『将軍』と言う呼び名に、自分でも若干違和感があった。この街に流れ着いた頃には、まさか自分がそんな呼び名で呼ばれることになろうとは露ほども思っていなかった。

「ちゃんと自覚を持ってもらわないと困ります。『ローゼンバーグ将軍』!」

わざと『将軍』の部分を強調してそう言うと、はくすりと笑った。

「ああ、そうそう」と、は手に持っていた細長い袋を私に向かって差し出した。袋の口から顔をのぞかせているのはワインボトルのようだ。

「お爺ちゃんからの昇進祝い。ホントはお店で渡すつもりだったんだけど、忘れちゃったんだって」

はい、と袋を渡すの手がふと目に入る。出逢った頃はもう少し小さく、子ども特有の柔らかそうな手だったはずなのに、今ではすらりとして、すっかり大人の女性の手になっていた。そんなことに、私がこのラバナスタに流れ着いてからの長い年月を感じずにはいられない。

「ありがとう。だが、今度店に行った時でも構わなかったのだが」
「だって、将軍様になったら忙しくって、なかなかお店にも来られなくなったじゃない。それに、早く渡さないと意味ないもの」
「そうか」

私はそっと手を伸ばし、汗で額にはりついたの前髪を掻き分けてやった。

「ちょ、バッシュ……!じゃなくって、将軍ってば!」

驚いて私を見たの頬は、少しだけ朱に染まっていた。慌てたように、私が触れた前髪をぎこちなく整える姿に思わず笑みがこぼれた。

「もうっ。子どもじゃないんだから……」
「『バッシュ』で」
「え?」

私の言葉に、はきょとんとした顔をする。

「『将軍』は自分でも気恥ずかしいんだ。だから、『バッシュ』のままでいい」
「けど……」
「今度『将軍』と呼んだら、返事をしないぞ?」

わざと意地悪い笑みを作っての頬に手をやると、彼女はますますその顔を赤く染めた。



本当は君にだけはずっと名前で呼ばれたいのだと言ったら、君はどんな顔をするだろうか。



2010.1.11